あちこちのメディアで絶賛されているが、確かに今年の高校サッカー選手権決勝は素晴らしかった。
あらためて痛感させられたのは日本という国における地域性の大きさである。あの試合は、言い方を変えれば異なる2つの精神の激突といってもよかった。
野洲のボールの出どころに「特攻」的に圧力をかけ続けた鹿児島実の選手たちは「自己犠牲」という精神によって結ばれていた。どれほど体力があろうとも、精神的なつながりがなけばあれほど献身的なプレッシャーはかけられるものではない。
一方、野洲が多用したドリブル突破からヒールパスという攻撃は、自分の背後には必ず味方が飛びこんできてくれているという「相互信頼」がなければ ありえないパターンだった。あのプレーを「個人のイマジネーション」という聞こえのいいフレーズで片づけてしまうと、プレーの本質を見損なうことになる。
2つの高校は、同じ言語を話し、同じ国籍を所有しながらも、かくも異なる精神を己の軸としていた。イングランドとスペインのサッカーを比較しても、以前に比べればはるかに違いが少なくなりつつある現代のサッカーを思えば、これは驚くべきことである。
少し気になるのは、洗練されたサッカーで勝利した野洲を称賛するあまり、敗れた鹿児島実のサッカーがやや軽んじられているということだ。
テクニックが体力を凌駕(りょうが)した。今回の決勝戦をそんなふうにとらえている人は少なくない。これは必ずしも間違いではないが、ゆえにテクニック
があれば体力は必要ないというのは少し違う。そういう考え方はあってもいい。しかし、日本全体が偏ってしまうと、せっかくの多様性、地域性を台無しにして
しまう。
テクニックで勝負するのが貴いならば、フィジカルで勝負するのもまた貴い。「体力では欧米人にかなわない。だから技術で勝負する」という考えが正 しいのであれば、「まず欧米人との体力差を埋めなければ戦えない」とする考えもまた正しい。鹿児島実の体力を超えられない技術ではドイツにかなうわけがな く、野洲の技術を圧殺できない体力であれば、ブラジルと戦えるはずもない。だが、より技術をつけた鹿児島実ならば?よりフィジカルに長(た)けた野洲なら ば?
求められるのは、自分たちのいいところを伸ばしつつも、足りないところは補っていこうという発想である。来年の高校サッカーでは、また違った精神につかさどられたチームの出現を見てみたい。


