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COLUMN


『体育にまつわるエトセトラ⑤』

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 偉そうに言います。

スポーツライターの条件。スポーツに愛着があるのは当たり前。ライターである以上、書く能力がなきゃいかん。では、書く能力をつけるためにはどうしたらいいのか。これが「無から有を作り出す」小説家であれば、持って生まれた才能に左右されるところが大なのでしょうが、幸いにして、ノンフィクションの場合は題材が魅力的であれば、書き手の能力をカバーしてくれるところがある。もちろん、そのためにはインタビューの能力をあげていかなければならないという問題はあるのだが、とりあえず、書くということに関しては努力でなんとかなる。

 じゃ、いい書き手となるための努力とはなにか。可能な限り多くの書物を読むこと。それが若いころであればなおよし。脳味噌が柔らかいうちに刷り込まれた表現の数が多ければ多いほどよし。書くというのは、基本、模倣の積み重ね。だったら、サンプルとなるデータは多ければ多いほどいい。

 映画を見る、というのもある。このシーンはどんな脚本によって成り立っているのかを想像する。自分だったら、映像を文字に変換するためにどんな表現をするのか想像する。スティーヴン・キングの作品が「映像が目に浮かぶよう」と表現されるのは、たぶん、その作業をしているからなのではないか、と想像する。名匠スタンリー・キューブリックによって映画化され、その映像美を絶賛された『シャイニング』に彼が激しく噛みついたのも、原作を書く際に彼が思い描いた想像上の映像と、キューブリックが撮った実際の映像が大きく食い違っていたのも一因ではないか、と想像する。原作とシナリオの違いや、ジャック・ニコルソンの存在感だけが問題、というわけじゃなくて。

 ちなみに、カネコタツヒトが好きな映画ナンバーワンは『大脱走』。もう一体何回観たことか。海外出張の際は必ずDVDを持っていくし、3年前、フランクフルトでアパートを借りた時はリビングで上映会をやり、しもべたちに強制的に鑑賞させたものでした。

 ご覧になられたことのない方のために簡単にストーリーを説明しておくと、第二次大戦下、ドイツ軍の捕虜となった英米軍の兵士が、知力の限りを尽くして収容所から脱走する、というもの。ま、端的にいってしまえばそれだけのお話なんですが、スポーツライターとしては考えさせられるシーンもあるわけです。

 脱走しては捕まり、また脱走しては......を繰り返し、『独房王』と呼ばれるようになった米軍兵士がいます。常人であれば精神に異常を来すこともありうる独房暮らしを、スティーブ・マックイーン演じるヒルツ大尉はそのたび、平然と乗り切るのですが、その助けとなるのがグローブとボール。暗闇の中で、彼は壁を使った一人キャッチボールを楽しみ、精神を平穏に保っていくのです。

おお、なんと偉大なスポーツの力......なんてことが言いたいのではありません。この映画、原作は史実に基づいたノンフィクション。実際に捕虜収容所に入れられていた兵士たちは、セットの再現などに協力し、映画が完成した暁には「よくぞここまで再現してくれた」と感激したほどだったそうです。

つまり、独房にボールとグローブを持ち込んだ米軍兵士の話は、たぶん、史実。で、日本人としてはつい、こう思ってしまいません?

「捕虜収容所って、そんなに自由なのかよ」

 半世紀以上前のドイツ人が、アメリカでしか行われていなかった野球を知っていたとは思えない。それでも、彼らは独房の中にグローブとボールを持ち込むことを許した。独房って、懲罰房のことですぜ。これが日本軍に捕まった米軍兵士であれば、一般房であってもグローブやボールの持ち込みなんて禁止されたことでしょう。

 だって、非常時には自国民からもスポーツを奪った国なんだから。

 スポーツ=体育である以上、敵国兵士の身体を育てていいことなんかあるわけがない。当然、禁止。それが当時の日本人の論理であり、もしかすると、いまもどこかに残っているメンタリティかもしれません。

 もちろん、捕虜を限りなく奴隷に近い存在として考えていた日本人と、拘束はしていても、あるいはされていても立場は同じ、という共通認識があった欧米人の違いはあるかもしれません。

 でもね、カネコタツヒトとしては、やっぱり日本におけるスポーツの軽さを思ってしまうわけですよ。第二次大戦中、食料増産のために野球場を畑に変えた国がある一方で、NATO軍による空爆の最中にも「芝生を守らなければ」と整備を続けたレッドスター・ベオグラードのグラウンド・キーパーがいる。いい悪い、あるいは優劣の問題ではなく、でも、違いは間違いなく存在する。

 じゃあ、いつまでたっても日本におけるスポーツは軽いままなのか。

 結論。違います。断じて違う。

 軽いのは体育であってスポーツではない。次回は、その根拠について述べます。

コメント(6)

はじめてコメントさせていただきます。

一連の「体育にまつわるエトセトラ」には関係がない話なのを最初にお断りさせていただきます。

金子さんのこのサイトのコラムは全部読ませていただいておりますが、気になることが1つだけあります。
それは、なぜこのコラムでは主語に「カネコタツヒトは」という風に書かれているのですか?
金子さんほどの書き手なら、何か意味があるのかもしれませんが私には少し違和感がありました。
ブログだからそこまで堅苦しく書くことをされてないのだとは思いますが、それでも「私は」などでいいのではないですか?
「カネコタツヒトは」と書かれてしまうとどうしても女子高生などが「○○(自分の名前)はー」と言ってるように思えてしまってどうにもしっくりこないのです。

今回の記事に関係ない件、また素人が生意気を言って申し訳ありません。

金子さんの仰る、「いい書き手になるための努力」。
非常に勉強になりました。

とくに「映画を見る」。
これは私にとって、目から鱗です。

かろうじて私は本を読むのは日々行っておりますし、
大好きなんです。

ただ、映画を観て脚本を想像するという努力は全くしたことがありませんでした。アクション、フィクションものの映画が好きな私にはこの作業が必要になることが少なかったのでしょうか。

それとも、フィクションでも可能なことなのでしょうか。

ただ、映画を見て、脚本を想像するのはとても面白いことだと思いました。ちょっとこれから映画を見る際は、実践してみようかと思います。
・・・。
これから観たい映画・・・。
「トランスフォーマー リベンジ」
「エヴァンゲリオン:破」

フィクションばっかし。
レンタル屋に駆け込んでみます。

ところで。
「拘束はしていても、あるいはされていても立場は同じ」
という文面のところに、若干違和感を感じてしまいました。

日本人が、欧米人を捕虜とした場合の扱いがどうであったかは勉強不足のため存じ上げませんが。
ただ、欧米人が捕虜を「立場は同じ」という認識で扱っていたというのは違うかな、と思ってしまいました。

彼らこそ、捕虜を奴隷として扱っていたのではないでしょうか。
第2次大戦中だけではなく、近々でいえば、イラク戦争の際に問題となった「アブグレイブ収容所」の捕虜虐待。これに関しては大きな問題となって国際社会の注目を浴びたことは記憶に新しいものです。完全に人をおもちゃ、道具としか考えていません。この欧米人の感覚、自分たちこそが世界でいちばん優秀である、という感覚があるからこそあぶりだされた問題であると思います。もちろん、すべての欧米人が、というわけではありません。

過去の対戦下でも、欧米人は東洋人(日本人)に虐待、拷問を繰り返したと聞きました。そんな状況下であったからこそ、日本人は欧米人の捕虜の自由を奪ったのではないでしょうか。彼らに自由を与えたら自分たちが何をされるか分からない。そのため彼らにスポーツをさせるなんていう発想は出てこなかったでしょう。

当時は特にスポーツ=体育、という図式は揺るぎないものであったように思います。

金子さんの結論はここからですよね。
昔と今は変わってきた、ということなんでしょうか?

長く、このテーマを私自身も考えてきたんですが、
ようやくゴールの光が見えて来ました。

いつまでたっても、日本におけるスポーツは軽くない!
そう仰る金子さんの根拠について、早くも楽しみであると同時に、私もこの国のスポーツはもっと重くなることができると、具体的な根拠が上がらないんですが、思っております。

もしかしたら金子さんの根拠が私のヒントになるかもしれません。
続き、待ってます。


 大脱走、私も3回(たぶん)は観ました。
 個人的には金子さんがおっしゃっていたスティーブ・マックィーンが独房の壁相手にキャッチボールをしているシーン以外にも、脱走するために穴掘りをやっている連中とは思えない明るさと上品さが印象に残っています。
 でも、おっしゃる通り、それもこれも禁止しなかったドイツ軍兵士に視点を当ててみると、独房にスティーブ・マックィーンを連れて行ったドイツ軍兵士が、壁相手にボール投げをしている乱暴な音を聞いて立ち止まり、少ししてから何事もなかったかのように立ち去っていったシーンも鮮明に思い出されます。
 あの兵士のあの間にあったもの、それがまったく想像できない私は典型的な日本人なのかもしれませんね。
 コメントが的外れになりましたが、体育論のつづき、クラブでもなく部活でもなく体育会にいた人間としても楽しみにしております。

サッカー日本代表チームについて少し気になることがあるので
この場を借りて僕もつらつらと書きたいと思います。
僕は未だに中田英寿さんを超えるプレーヤーが代表チームには居ないと思います。ただ技術だけを言えば、ヒデを超える選手は沢山います。ただ彼のメンタリティー、キャプテンシー、気迫、気力そういうものを持ち合わせている選手はあまり見かけない。
こないだのカタール戦を見てそれをはっきり実感しました。
現役時代ヒデ自信、僕はそういう選手ではないと言っていましたが、他にいなかった、いや、あまりにも酷かったのでプロ意識の高いヒデは我慢できなかったのだと思います。その鬼気迫るキャプテンシーは観戦している僕にも伝わってきました。
でも、残念ながらジーコ時代のヒデのキャプテンシーは他の選手との溝を作ってしまったと聞きました。その溝を作らせたのは何もしなかった、ジーコだったと思います。それが残念でならない。ヒデの涙のブラジル戦は今でも忘れません。駆け寄ったのが同い年の宮本だけだった・・・。
今の代表チームにはそのヒデがいません。チームを鼓舞していく本当のキャプテンがいないと思います。ピッチに出れば選手一人ひとりのプレーに託されるわけですから。それを俊輔がやるのか、中沢なのか。ただオシム監督時代はチームの方向性がはっきりしていたのでこのまま行ってくれればヒデがいなくてもかなりいいチームが出来上がると思っていました。オシム監督が倒れ、岡田ジャパンに移行して数年経ちますが、残念ながらいい方向に向かった、明らかに強くなったと言われると疑問が残ります。岡田さんが悪いとは思えませんが、カタール戦、オーストラリア戦を見るとチームの方向性がいい方向に向かっているとは到底思えない。アジア相手にパスが出来ない、通らない、体力がもたないなど多いです。これが世界の強豪チームに真剣勝負したら結果は見えています。1年後に見違えるようなチームになっているとは到底思えません。監督が変わればガラリと変わるでしょうが・・・。是非金子さんに検証していただきたいです。
今のサッカー日本代表チームはオシム時代とまるっきり変わってしまったのか、このまま悪い方向へいってしまうのか?またどうすればワールドカップで勝てるのか。森本を呼んだほうがいいのかなど本当に不安でなりません。

敬愛する金子達人さま
スポーツに関するコラムをいつも楽しく読んでいます。ただ、一つだけ間違いがあります。捕虜に関する記述ですが、日本人と欧米人の違いについて書かれている個所は金子さんの誤解です。日本人が捕虜を奴隷のように扱ったというのは欧米人のプロパガンダです。そこだけは違います。これからも楽しいコラムをお願いします。

金子さんのおっしゃりたいことがかなり分かってきました。
日本は全体的に少しまじめすぎるのかもしれません。
よく外国人から勤勉と言われるように、遊び心が少し欠けている気がします。学校や仕事でもそれ一色で、息抜きのスポーツが欠けていたり、その話題がタブー視されていたり。
しかし、そんな日本も2002年のWカップ辺りから変わってきたのではないかと思います。スポーツやサッカーが好きでない人も、Wカップの話題をしたり、サッカーを楽しんだりしています。また、行政や企業、団体がスポーツにも力を入れてきています。まあ、もとがもとだけにまだまだ欧米には文化としてかないませんが、これから10年、20年経つと日本におけるスポーツの占めるウエイトは大きくなりそうです。自分もサッカーの審判をやりはじめていますが、身近なところで芝生のグランドで草サッカーができ、そんなところで笛を吹いて、未来の俊輔を育てたり、様々な年代の人が楽しめるような環境をつくっていきたいです。

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