これだけコクのあるコメントを寄せていただいてると、なんだか、このテーマを終わらせるのがもったいなくなってくるなあ。
サトウさん。「日本人が捕虜を奴隷のように扱ったというのは欧米人のプロパガンダです」というご指摘。待ってましたよ、これ。もちろん、そういった側面はあるでしょう。ただ、当時の日本には「戦陣訓」なる教えがあったことも忘れないでください。生きて虜囚の辱めを受けず、ってやつです。
当時の日本人にとって、捕虜になることは恥でした。恥ずかしい身分に転落することでした。それが正しいか、間違っているかは別の問題として、自分たちが捕虜という立場をそのように受け止めていたのならば、自分たちの捕虜になった敵軍兵士にも同様の見方が向けられたはず、とは考えられませんか? 少なくとも、対等の立場でなかったことは間違いありません。捕虜収容所と刑務所は似て非なるものですが、日本人の感覚としては今も昔も、捕虜と罪人を同一視してしまっている感があります。刑務所であれば、独房にグローブやボールを持ち込めないのは当然。日本であろうが、欧米であろうがね。
footballparkさんの指摘も興味深い。「欧米人こそ捕虜を奴隷として扱っていたのではないでしょうか」。これ、イエスでありノーであるとも思います。つまり、欧米人が欧米人を捕虜とした場合はノー。欧米人が有色人種を捕虜にした場合、ナチがユダヤ人、スラブ人を捕らえた場合はイエス。第二次大戦中のアメリカで、イタリア系アメリカ人、ドイツ系アメリカ人に比べ、日系アメリカ人がはるかに苛烈な扱いを受けたのもイエス。アブグレイブ収容所のケースも、イエス。ココの場合は「収容所」と呼ばれてはいますが、捕らえる側の感覚としては限りなく刑務所に近い、ということもあるでしょう。
距離が差別を生む。無知ゆえに冷酷になれる。
第二次大戦中、日本では「鬼畜米英」という言葉が当たり前のように使われていました。ほとんどの日本人には外国人の友人などいなかった時代です。知らなかったから、憎むことができた。遠かったから残虐にもなれた。同じことはアメリカについても言えるでしょう。だから、無差別爆撃を行うことができた。原爆を落とすことができた。
いまが1945年だったらどうでしょう。もし日本がオクラホマに爆撃を行うとしたら、ランディ・バースを神と崇める阪神ファンは平然としていられるでしょうか。アメリカが愛知県に原爆を落とすとしたら、イチローを愛するマリナーズのファンは黙っていられるでしょうか。
ベオグラードが爆撃された際、ストイコビッチの「NATO軍よ、爆撃をやめてくれ」という必死の訴えに呼応した日本人は皆無だったでしょうか。
スポーツには、距離を縮める力がある。無知を有知に変える力がある。第二次大戦以降、近隣諸国から警戒されることはあっても愛されることはまずなかったドイツは、06年ワールドカップの素晴らしい運営によって「愛されるドイツ」に変わるきっかけをつかみました。少なくとも、ドイツ人はスポーツの力を知っている。
日本人はどうでしょうか。
東京オリンピックの招致活動を見ていると、とんちんかんすぎて涙が出てきます。IOCの視察団がやってきた。そこに日本のメダリストを集めてどないすんねん。日本人しか知らない日本人のアスリートを集めて、東京をオリンピックの開催地にしようか考えてる外国の人たちに対してどんな訴求力が生まれるっちゅうねん。スポーツの力を知らない官僚や政治家は「とりあえずスポーツ選手を集めておきゃなんとかなるか」と考え、引っ張り出されたスポーツ選手は政治をまるで知らないときた。それゆえの愚策。
テレビのスポーツ番組にタレントさんが起用されるのも根っこは一緒。つまり、テレビを作る側の人間に、「スポーツ=体育=軽いもの=退屈なもの」という認識があるから、「面白いものを付け足さなきゃ」ってことになる。「スポーツ=娯楽」という前提があれば、こんなことにはまずならない。『笑点』の大喜利にいま人気のお笑いコンビを乱入させたりはしないっしょ。落語は娯楽だし、プロデューサー個人の判断でいじれるほど軽いものじゃないから。
第二次大戦マニアのツボを刺激してくださるコメントがあったもので、つい脱線してしまいました。あ、ひでさんからの指摘に対するお答えを。なぜカネコタツヒトという主語を使うのか。これ、実は前々から悩んでいる問題でして、以前のブログでは「我が輩」という主語を使っていた時期もあります。わたし、だと紙媒体と同じになってしまうし。照れ隠しといったらなんですが、真面目な問題にまなじり決して取り組む、というスタイルには抵抗があるんですよねえ。矛盾するようですが、スポーツは重いけれど、でも、たかがスポーツという一面もあるわけで。
「わたし」でいけ、という意見が多いのであれば、これからはそうします。
さあ、次回こそ結論に入れるかな。




はじめまして。
思うに「体育=スポーツ」ということ同様に「スポーツ=エンターテイメント」という部分が大きすぎるように感じてます。
プレーする以上に見るもの。的な考え方です。
とくに社会人に多くみられる気がします。
まるで映画を語るように、スポーツを語るのは決して悪いことではないのですが、スポーツはもっと身近にあって欲しいと思うのです。
映画や絵画で表現することはすごくエネルギーや能力の必要なことだと思いますが、スポーツってのはもっと敷居の低くてしかるべきもののはずなのに、30代を過ぎると完全に入りにくくなるながスポーツだと思います。もちろん個人差もあるんでしょうが。
ひとえに「スポーツは見ることを楽しむもの」といった発想が強く広がりすぎたのではないかと思います。
個人的には「見て、プレーしてこそ楽しいもの」と考えてます。
オリンピックを見てボイドのゴールした時のパフォーマンスを真似たりすることこそ、スポーツの楽しさなんじゃないのかなと。
実際に集計したわけではないのでわかりませんが、野球を文化として考え、サッカーをスポーツ(体育との比較は置いときまして)として考えた場合、40代からのプレー人口ってのはどうなんでしょうね?おそらく、すべてのスポーツの中で野球が群を抜いてる気がします。
また、海外ってどうなんでしょうか。
これほど「趣味はスポーツ観戦」って答える人の多い国ってあるんでしょうか?
もっと、多くの人が「スポーツ=見るよりするもの」って考えになればいろんなことが変ってくような気がしています。
「やらされてた体育」ではなく「やりたいスポーツ」ってとこでしょうか。
乱文で申し訳ございませんでした。
体育にまつわるエトセトラ・最終回楽しみにしてます。
また、このような議題でのお話も合わせて楽しみにしています。
ちなみに、「カネコタツヒト」に1票お願いします。
もしくは、「アチキ」でお願いします。
失礼しました。
コメントいたしまます。
どうも腑に落ちない点をいくつか。
体育=戦争うんぬん。
あたりまえじゃないでしょうか。
こんな自明なことをあらためていうのは噴飯ものです。
オリンピック行基をみても、「ヤリ投げ」「ハンマー投げ」「マラソン」ギリシャ時代の戦争そのまんまです。
「馬術」「射撃」戦争そのものです。
スポーツ=体育=戦争 日本だけじゃなくて、世界中がそのままなんですけど・・・。
あと、団体競技=祭りって、それはフットボールの歴史をそのままいっているダケじゃないんですか?
もうしわけないですが、カネコさんにしては体育・スポーツに関しての考察レベルはぜんぜん面白くないですよ。
司馬遼太郎さんの本を読んでいたら、
江戸期の身分や分際を超越できるのた武芸と学問だった、という記載がありました。
(現代では芸能がこれに加わると思います)
町人と武士が同じ舞台で競れるのは道場と寺子屋だけだったそうです。
体育の原点はこの道場ではないのかというのが、私の仮説です。
明治期になって身分や分際が崩れたとき、平等なという視点でスポーツ教育を考えれば、この江戸期の道場しかモデルがなかったんじゃないでしょうか。
道場はいうまでもなく、身体や技術だけでなく心身鍛錬の場であったわけですよね。
How about this idea?
スポーツは距離を縮める
確かに言われてみればそう思います。
オシムさんが来日して、日本人は東欧分裂について感心を持つ人が多くなったと思います。
これはオシムさんの人柄がそうしてるのかもしれませんが、スポーツは関わっていますよね。
もとはといえば、オシムさんがここまで日本に尽力してくれるのも、スポーツが始まりだったそうですね。
戦後の東京オリンピックで選手として来日していたオシムさんに、サイクリング中梨を振舞われた日本人のホスピタリティや、最新のカラーテレビを目の当たりにし、「いつかは日本に恩返しがしたい」という信念を持ち続けてくれていたからだそうです。(これは有名な話かもしれませんが)
当時ジェフ千葉に在籍していたスロベニア代表DFミリノビッチが日韓W杯に出場した際、数多くのジェフサポーターが黄色いユニホームを着て試合会場に駆けつけたそうです。
そしてミリノビッチは「ピッチからでも黄色いユニホームは見えた。私は彼らに感謝している。」
またフランスW杯でもドゥンガがある試合でMVPを獲ったとき「どうだ見たか!これで日本のJリーグをバカにするのはやめにしてくれ!私はこの試合でMVPを取ったし、レオナルドはよく頑張った。サンパイオはゴールまで取ったんだぜ。私たちはJリーグに感謝してる」
こういう話を見聞きすると、スポーツは人種や距離を越えるだけでなく、いい意味でのgive and takeが生まれる可能性だってあると思います。
これはすべて日本人が絡んでいるエピソードですが、日本人だって、スポーツを軽くとらえている訳ではないのかなと思います。
ただオリンピック招致の例を考えてみると「日本人」ではなく、「日本という国」がスポーツそのものに対して間違ったとらえ方をしているのかな、と感じました。
金子さんのご指摘ありがとうございます。
確かにそうの通りです。
欧米人が、欧米人を捕虜にする場合と有色人種を捕虜にする場合と全く違いますね。私が思うのは、先の対戦下、欧米人が日本人に持っていたイメージというのは「神風」であったり「腹切り」であったりしたと思います。お互い無知であったが故の弊害という面もあるにせよ、その「神風」を体現してしまった日本人の底知れない脅威を押さえつけようとしたために、捕虜にひどい仕打ちをしたのでは、と私は考えます。
今時代が変わりました。
このネットが普及したせいもあり、日本と世界を結びつけるのは容易となりました。世界に対して昔ほどの無知というのはなくなってきました。
私が子供のころと比べたら今、海外のサッカーは私たちの身近なものとなり、それによって様々な国や選手たちも知ることができます。なんといってもFIFA加盟国は国連加盟国よりも多いくらいです。
「スポーツには、距離を縮める力がある」
まさに!
極東にいながらにして、我々はスポーツを通じてその国の文化に直接的、間接的にも触れることができます。これはとても素晴らしいことだと思います。もし、オシムさんが日本にきていなければ、ユーゴスラビアのリアルな現状というのも目の当たりにすることができなかったと思います。
金子さんの話にドイツの例えがありました。
これは日本にもできることだと思いますし、やらなければならないことだと思います。オリンピックとW杯という違いがあるにせよ、今の日本人はwelcomeの精神をもっていろんな国の選手たちを迎えることができるのではないでしょうか。
そしてただwelcomeするだけではなく、日本の素晴らしいところを世界に発信するチャンスです。
オリンピックの招致活動に日本のメダリストを集める前にもっとするべきこと、プレゼンする内容があるように思います。日本には世界に誇れる日本独特の文化、歴史があるんですから。
あ。私はどちらかというと「我が輩」というのが好きです。
2番目が「カネコタツヒト」。
「わたし」はなんか、金子さんが軟派に感じられてしまってイヤです。もう「団長」の復活はありませんでしょうか?
体育にまつわるエトセトラ、楽しく拝見させていただいています。
結論を楽しみにしているのですが「スポーツ」の力に関して、ちょっとした疑問があり、何とか金子さんに意見を伺えない物かと、僭越ながらコメントさせていただく次第です。
スポーツの力、と聞いてわたしが真っ先に思い浮かべるのは、9.11直後のアメリカスポーツです。日本の報道で見た限りでしかないのですが、たぶん、あのとき多くのアメリカ人をメジャーリーグなどのスポーツが勇気づけたのだろうと思います。
個人的なレベルの話しをさせていただくと、当時高校生だったわたしは、小野伸二選手の大ファンでした。当然、フェイエノールトが出るCLは見逃せるわけもなく、夜中の三時に目覚ましをかけテレビをつけると、そこに写ったのは中止の文字でした。ふざけんなテロリスト、と思ったのを覚えています。
しかし、そのあと考えるようになったのは、ああスポーツは平和じゃないと出来ないんだな、ということです。日韓W杯までの間、妙なことは起きないでくれと暫く願うようになってもいました。もしかしたら、今の北朝鮮では同じように思っている人がいるかもしれません。
その後、スポーツに勇気づけられた(だろう)アメリカは、アフガニスタンとイラクに攻め込みました。常に戦火と隣り合わせの中東の国々には、日常の糧になるような「スポーツ」は存在しないのでしょうか? いや、イラクはアジアカップ優勝までしています。
無知ゆえに冷酷になれる。スポーツは無知を有知に変える。
確かにそうだろうと思います。でも、わたしには、アメリカのスポーツは自国民には重い物ではあるだろうけど、無知を有知にする力があるとはとても思えないのです。
長くなって申し訳ありません。ようやく本題です。
そこで、金子さんに聞いてみたいのは「世界スポーツ」としてのサッカーの重さです。
他のスポーツが軽いというわけではありません。一生を阪神に捧げる。それはとても豊かな人生を送れるだろうと思います。しかし、イラク人の助っ人が来るとは思えません。
日本とアメリカは、サッカーがとても軽い国です。そこに何か意味はあるでしょうか? こんなことを書くと、世界ではサッカーをやっていない国もあるとか、強制するなとか、かぶれてるとか言われそうですが、それも含めて日本でのサッカーの軽さだと思います。
これは一昔前はよく聞かれた議論なのですが、結論は聞かれないまま、ほっとかれているように思うのです。
「世界スポーツ」という言葉に意味はあるのか、単なる素人の思い過ごしなのか、金子さんに一言でもいただけたら、と思っております。
今、テレビを見ていて思いました。
金子さんとヤクルトの館山投手はとても似ている(断言)
コクのないコメントですみません。
箸休めだと思ってくださいませ。
金子さんの視点、気づき、なるほどと思うことばかりです。僕の頭の中のシナプスがバチバチとスパークしまくりです。ただ、まだなんとなく腑に落ちないのが、「スポーツ=戦争」と「スポーツ=体育(=軽い)」の関連性です。それぞれのお話は至極納得なのですが、そこをつなぐ部分が、ちょっと僕の頭では理解できず、ふわふわしています。
なんとなく考えたことをまとめてみると、まずは、スポーツを軍や戦争に重ねてしまう話、なるほど!です。ただ僕のイメージでは、「スポーツ=体育」と誤解しているから、というよりは、私たちが本当の「戦争」を知らないがゆえの安易な比喩なのでは、というのがあります。そして、そのような物騒な比喩が何の違和感もなく流通してしまっているその起源は、おそらく「東京オリンピック」からではないかと思いました(すみません、僕の無根拠な意見です)。敗戦国として世界に負い目を感じていた日本。国の威信を見せつけたい思いから、いつしか日本代表は「国を背負うもの=軍隊」として、みんなの期待を一身に背負った。その名残だけが、戦争を知らない現代でもつづいているのかなと。「戦争」は日本の人々にとって、「自分たちが世界と競争し勝っていく」という一種のカタルシスが、あったと思うんです。戦後は、そんな「戦争」の代わりものとして、「スポーツ」が自然と祭り上げられたのかなあと。最近は自分たちの国に対する意識が希薄になっているせいか、昔ほどの熱狂はなくなりましたが、煽りたいマスコミは好んで戦争に例えたがるんでしょうね。戦争を知らないのに、いや、知らないがゆえに。「スポーツ=戦争」なら代表は軍隊だから、ガム噛みながらやってたら「不謹慎な!」ってことにるし、「楽しんでやる」にしても「遊びじゃないんだぞ!けしからん!」ってことになりますよね。頭では分かっていても、無意識のうちにそういうメンタリティが植え付けられている自分に気づかされました。
次に「体育」の話も、なるほどと思いました。ただ「スポーツ=体育」というよりは、富国強兵政策の一環である「体育」の中に「スポーツ」が盛り込まれている、そんなイメージを抱きました。結局、「スポーツ=体を動かすもの」という表面的な部分でしか捉えられてなくて、「体育」という教科に取り込まれたのではと。たぶん文科省の建前では「体を動かす楽しさ」や「コミュニケーション力の滋養」など一歩踏み込んだ捉え方もあるのかもしれませんが、本音ではせいぜい他教科と相対的に見た場合の「勉強の息抜きのための娯楽」という捉らえられ方が一般的でしょう。いかんせん、軽い!これは、とても悲しいことですね。そして、それに輪をかけて、「体育」という教科が貶められている、いまの日本の現状がある。ホワイトカラー信仰が蔓延していて、肉体労働なんて儲かんない、バカバカしいという空気。結局、オリンピックの件に関しても、経済政策のことしか考えていないのは明らかですよね。本当の意味での「スポーツ」に関しては何も考えてない。そもそも分かっていない。別に儲かるのなら「スポーツ」の代わりに「囲碁」でも何でもいいんでしょうね。
そして、いま書きながら何となく「スポーツ」「戦争」「体育」の関連性が分かってきました。「戦争」は「スポーツ」から「娯楽」「文化」を奪った。そんな骨抜きの「スポーツ」がいわゆる「体育」で、そのまま現代にまで至り、いつしか「軽いもの」、無用のもの(お金を儲けないもの、非効率ななもの)として扱われている。と、そういうことですかね。
でも日本の「スポーツ」の概念。悲観することばかりではないと思っています。例えば、サッカー。一昔前に比べたら確実に地域のアマチュアクラブが増えています。そこでは子供たちが元気よく、目をキラキラさせながら楽しんでいます。子供たちは「体育」としてではなく「スポーツ」としてのサッカーを身をもって実感できていると思います。でも、そこで思うのは、その楽しいサッカーはどこで知ったのでしょうか。親?テレビ?友だち?もしかしたら「体育」の授業って子もいるかもしれません。少なくともそういう部分では、「体育」も捨てたもんではないなあと思いました。そして、そこで初めて知った「スポーツ」の本質の部分を子供たちは、ちゃんと掴んでいるんですね。日本の場合は、「スポーツ」の本質はそういう草の根的なところから熟成され、再構築されていくことと信じています。
(と、無責任にダラダラ書いているうちに長文になってしまったことをお許しください。読んでるうちにいろいろ考えさせられるものがあり、いてもたってもいられなくなりました。)
スポーツ番組にタレントさんを起用するのはスポーツを好きな人だけじゃなくその他の視聴者達も取り込もうとしているからじゃないでしょうか。その根っこにはスポーツだけでは視聴率が…と考えているプロデューサーの意向も汲み取れるかもしれませんが。
私が以前読んだ本にはスポーツが娯楽・文化の分野に属すため、スポーツ情報に楽しさや感動を付加された情報が読者・視聴者に受け入れられ、笑いや涙などを表現するプロである芸能人が起用されるということが書いてありました。
スポーツが文化としてこの国に根付いているのかは甚だ疑わしいものですが、そのスポーツにそれほど興味のない人にとってスポーツは退屈なもので、少しでも興味のある人や一般的な大衆はタレントのパワーで感動を付加されたり、興味をあおられているのではないでしょうか。
やっぱり純粋なスポーツ報道やスポーツ番組だけでは面白味やインパクトに欠けてしまっていると考えている人が大半だからそういったスタイルが取られているのかなぁと。純粋にスポーツを好きな人にとってはタレントの起用は邪魔以外の何ものでもないですが。
だからスポーツはもちろん魅力的なものであるのですが、幼い頃からそういったスポーツ番組にどっぷり浸かってきた私も含めた日本人にとっては純粋なスポーツだけの番組では物足りなく感じてしまう人がほとんどではないでしょうか。それこそがスポーツが国民に根付いていない証左と言えるのかもしれません。国民性がそういったものだから、メディアがそういったスタイルだから。どちらが原因かはわかりませんが相互に影響し合って今のスポーツの考え方にいたっているのではないでしょうか。
笑点なんかでもあれは伝統や文化として年配の方々に根付いたものであるからこそ、安易な人気取りに走ったりしないのかなって思ったりします。伝統を重んじているというか。それだけあの古典的なスタイルを文化として待ち望んでいるお客さんや視聴者がいるってことですよね。
体育についてのコラム。まだまだ終わってほしくないです。
私達のようなスポーツに関して何かしらの思いや考えを持っている人たちがここで活発に議論することで、まだまだ続いたりするのかなぁって思ったり。笑
金子さん、どうもです。
体育の問題なり戦争との関係なり、自分の知らないことがたくさんあり過ぎて、「問題を問題」と感じる以前に「無知な部分を克服しよう」と、色々な本を読んでみました。それには、やはり野球関係を調べるのが、一番分かりやすかったわけですし、実に資料が多いのも事実でした。
まず、明治初期に赴任してきたアメリカ人教師によって伝えられた「ベースボール」は、東大、慶応、早稲田、明治などの大学で盛んに行われるようになったと。
しかし、アジア統一をめざす帝国にとって「準エリート」となりえる学生達が、アメリカの文化とも言えるベースボールに夢中になっている姿を面白いと思うはずがなかったわけですね。
そこで明治時代の終わりに、軍部は「新渡戸稲造」や「乃木希典」らに「野球の学生に及ぼす害毒」を書かせたと。そして、東京朝日新聞は「野球毒害キャンペーン」を新聞紙上で掲載し、野球に対しての圧力を強めていったとの事。
そういう中で、野球に魅了されていた野球関係者達は、なんとか軍事国家日本帝国の中での野球の生き残りを模索していたわけです。
そして出した答えとして「野球は遊び(スポーツ)などではなく、日本帝国軍人育成のための体育教育の一環としておこなわれているものである」という文言を打ち出したと。
そしてこの姿勢が「野球イコール軍事教練」と言う図式になり、さらに明治以降の武士道精神が植え付けられながら野球が「野球道」というベースボールと似て非なるものとして形作られていったと。
大阪朝日新聞社が、全国中等学校優勝野球大会(現甲子園大会)を開催し、野球害毒キャンペーンに対して「野球がいかに教育的であるか」といキャンペーン返しをしたと。
そこには、野球害毒による「野球は堕落への道に通じるモノ」というキャンペーンに対しての「野球は教育的なモノである」というイメージを定着させて、なんとか野球を存続させる道を模索した様子がうかがえます。そういう流れから「野球は教育」というイメージが定着していき、まさに軍隊生活同様の封建的規律が学生に浸透し、それがプロへも通じていったのでしょうかね。
などなど野球と戦争の関係性を色々と調べていると、まだまだ面白い発見がありました。これ以上書くと長くなり過ぎるので、別の機会こちらで書かせてもらいます事をご了承ください。
最後に、自分がこういう文献などを読んでいる時に、ふっと疑問に思った事があります。それはこの国では、なぜ今でも「野球をベースボール」と呼ばれないのでしょうか?
サッカーは蹴球ではなくサッカー。バスケットボールもバスケットです。野球だけが野球そのままで残っているのですが、そもそも「野球道」と「ベースボール」は似て非なるモノである事は、もうハッキリと歴史を調べれば明らかになったわけです。それでも、野球は野球のまま。なんか違和感を覚える次第です。
確かに、スポーツって相手を知る気にさせる、最高のきっかけになりますよね。個人的にもサッカーがなかったらイタリアに行こう、スペインに行こう、という気には恐らくならなかっただろうし、地図で場所はわかっても、ラテン系の国の差、とか読み取ろうともしなかったはず。そこから食文化的に、とか人柄とか、勿論、本当のところはわからないにしろ、相当理解が進んでいるはずですよね。
ちょっと話はずれてしまうのですが、今のチャンピオンズリーグの隆盛、ワールドッカップなどの楽しみ方を開発したのって、日本人じゃないかな、って気がしているんですよ。外国チーム同士のサッカーを見るために渡航する、っていう動きが本格化したのは1998年あたりからだと思うのですが、クラブならともかく、他国の代表ユニフォームをわざわざ買ってまでして応援するみたいな文化って、一部のマニアのものだったはずです。
98年大会でDiadora製の94年モデルを着てバッジオを応援しにいったら、イタリア人に「なんでてめーらがイタリアを応援するんだ?」的な態度をされましたけど、2002年あたりから日本以外の国の人でも、他国の代表ユニフォームを普段着てみたりする人も出てきましたよね。
あるいはチャンピオンズカップ。ほとんどのクラブが自国リーグ制覇を最優先にしていましたが、「世界最高峰クラブを決めるトヨタカップ出場権の欧州代表を決める大会」というアングルから、日本メディアがこぞって放送権を買うことをきっかけにお金を産む大会に成長したチャンピオンズリーグ。今では自国リーグでの優勝を逃しても、CL出場権が大事、というようなクラブが一般的ですよね。
そういう意味で、日本サッカー(ファン)の役割って結構エポックメイキングでしたね。世界の距離を縮めましたよ。結果、トヨタカップが発展的に終了し、クラブワールドカップになりました。この大会に関しては否定的な意見もあるけど、航空機のスピードが今の1.5倍くらいになれば、CLに取って代わる可能性もあるな、と個人的には思っています。
ただ、ちょっと残念なところもあります。なんか、世界が小さくなった感じもすることです。94年大会、98年大会くらいまではワールドカップは単にサッカー大会なだけでなく、新しい才能の発掘の場でした。ペレが「コロンビア、ヤバい」みたいなコメントを出すから、事前はモノクロページの海外情報を何度も読み込み、幻想を抱きました。リンコン、アスプリージャ、バルデラマ。楽しみだったなぁ(その分、結果にはがっかりもしましたが)。
マドンナがサモラーノのプレイぶりを見てセクシーって発言して、「俺はベットでも凄いぜ」とか反応した、とか、そっちの幻想も抱いたり、というのも面白かった。そういう意味では知りすぎるとつまらんな、という気もちょっとします。
はじめまして。お邪魔致します。
「体育にまつわるエトセトラ」佳境を迎えた所で割り込む事をお許し下さい。
おらが町のフットボールチームにまつわるお話を、「体育に~」のお話に少しリンクさせて頂きます。
おらが町のチームはファジアーノ岡山(以下ファジ)です。社長をはじめ、選手、有志の方々が一生懸命ビラ配り等を敢行する姿に心を打たれました。
ただ、そのビラの中に気になる部分がありました。それは、町おこしというか、岡山に元気をというニュアンスなんです。それは決して悪いことではないのですが、気になったんです。試合中ハーフタイムには、「今日は○○新聞社の方々が応援に・・・」とスポンサーの地元新聞社ご一行の紹介がありました。そして、J2昇格間近、社長は支援を求めるべく地元経済界のお歴々に直談判しました。そこでのお話は、本格支援はJ2昇格が決まってからという事とスタジアム周辺の充実の指摘が中心になったようです。
肝心のチームの戦い方は、シビアに勝ち点1を積み上げる感じです。やりたい形とか「これがファジアーノ」という色が凄い現実的なのです。限られた戦力でお金もないし・・・と言いたいところなんですが、観る方が観れば結構いい選手がいます。それに、少数精鋭と資金難は工夫次第でどうにかできるかも、というのは今シーズンの水戸ホーリーホックが希望を見せています。例えるならファジの戦い方は、優勝はできないし印象にも残らないけどCL出場は確保したいチームの頑張りに見えるのです。
ここでもう一つ、香川県のカマタマーレ讃岐について触れさせて頂きます。ご存じ羽中田監督率いるチームです。
一言で言うと、ロマンがあります。監督の攻撃フットボール志向がはっきりしてますし、フットボールを楽しもうとする姿勢があります。こちらもお金は無いし厳しい運営なのは間違いないでしょうが、私は夢を感じます。
2チームを引き合いに出して何が言いたいのか、ということですが
それは、「フットボールに対してどこまで純でいられるか」という事が「スポーツの重さ(軽さ)」のお話と繋がらないかということです。
ファジの方は、スポーツ(フットボール)を取り巻く環境との調和に比重が偏って、「スポーツが軽く」なってはいないか?と考えるのです。一方カマタマーレは、やりたいフットボールが先ずあって、そこに皆が良い意味で巻き込まれていっている印象があり「スポーツありき」と言えるのではないかと考えます。
すなわち、「スポーツの軽さ」はスポーツそのものの軽さと共に、それを取り巻く環境との比較で「どこまでスポーツが純度を保っているか」という問題とも考えられないでしょうか?
では、「スポーツの軽さ」をどう克服すべきか?政財界のオジサマ方には期待できないでしょう。月並みな結論になりそうで申し訳ありませんが、われわれ一般庶民がどれだけスポーツそのものに関れるか、楽しめるかによると思います。
昔から自衛隊存在の是非が議論されるとき、大きな話になりがちですが、結局自分の息子・娘の命を国に預けるのかという個々人の問題になるのと似てると思います。すみません、話がずれました。
金子さんや皆さんのように、問題意識を持ちつつ、スポーツを我々の手の届く範囲に確保して愛して楽しむしかないと思います。凄い悲壮感が漂ってしまいますが、楽しみ続けるしかない。そうするうちに、スポーツ=体育になりがちな方々がお年を召してラジオ体操するようになって、少しはスポーツの存在感が変わっていくかもしれないと思っています。
長々とお邪魔したうえ、消極的な結論になった事をお許し下さい。
金子さんのご活躍と、こちらをご覧の皆様のご健康をお祈りいたします。また機会があったらお邪魔させて下さい。
わたしなんて退屈な表現ではなく今まで通り「カネコタツヒト」でいきましょうよ。
差別や誤りを除けばそれは金子氏の表現の自由。変える必要は全く無い。
スポーツ論については全て聞いてからコメントします。
早速のご回答ありがとうございます。
確かに以前は「我が輩」で書かれていましたね。
あくまで私個人の意見ですのでお気になさらないでください。
本文と関係のない話で申し訳ありませんでした。
このままでは申し訳ないので少しは関係のある話題を。
オリンピックですが、東京在住の私としては是非東京で開催して欲しいです。
私が体験した日本のオリンピックは長野だけですが、長野はちょうど大学受験と重なって行けませんでした。
自分が生きてるうちにオリンピックが地元で開催されるというのは今後あるかどうかわかりません。
確かに、税金も多くかかるので興味のない人にとっては開催なんてしてほしくないでしょう。
私も仕事柄、経済効果などのほうに目がいってしまうのですが、それでけでは決して計れない「何か」が必ずオリンピックやワールドカップのような大会ではホスト国にもたらされると信じています。
根拠は?と言われると困ってしまうのですが…
オリンピックを生で見て感動したからこの競技を選んだという人がスターになり、またそのスターを見てその競技をやる人が増え・・・という良い連鎖が起きると思いますし、実際にそれは世界中で起きているとおもいます。
私の上司には「プロ野球選手でも引退後もちゃんと稼げる人なんてごく一部でしょ?」「スポーツ選手なんて運動バカばっかり」などと言う人がいるんですが、こういう人がスポーツの価値をわかってないんだと思います。