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【スポーツニッポン】変化しつつある外国人の立場(2009年7月10日)

 日本サッカー協会が審判の技術向上を指導するトップレフェリーインストラクターを英国から迎えた。リーグのレベルをあげていくうえで、レフェリーの技術向上も求められるのはいうまでもない。地味な部分からも目を逸(そ)らさなかった協会の判断を評価したい。

 ただ、興味深かったのはインストラクターとして迎えられたウィルキー氏のコメントである。

 「彼ら(外国人選手)は単なる選手で、特別な存在ではない」


 この言葉は、日本の審判が外国人選手に甘い傾向があるとの分析から出たものだという。

 だとしたら、日本の審判も変わったものだ。

 日本リーグ時代はもちろんのこと、Jリーグが発足してしばらくの間、日本でプレーする多くの外国人選手にとって審判の問題は頭痛のタネだった。

 「なぜ俺(おれ)たちはこんなにも目の仇(かたき)にされなければならないのか」

 そんなグチを聞かされたのも一度や二度のことではない。倒されれば演技だと見なされて笛を吹いてもらえず、倒せば正当なタックルであっても紙を出される。「どうして日本人選手に対するのと同じ基準で見てもらえないのか」――そんな不満が鬱積(うっせき)していた。

 実際、審判の間でも「要注意人物」として外国人選手がリストアップされているのは珍しいことではなかった。学校教育のもとでサッカーをし、審判=教師、つまり選手からの反論を許さない土壌で笛を吹いてきた審判にとって、すぐに注文をつけてくる外国人選手は相当に煙ったい存在だったのだろう。

 個人的には、日本の審判が特別に外国人選手に甘い、とは思わない。依然として、外国人選手であるがゆえに厳しいジャッジが下される場面も多々ある。ただ、本当にウィルキー氏の目に「日本の審判は甘い」と映ったとしたら、日本の審判のメンタリティーが「排除」から「受容」へと変化したことを意味するのではないか。わたしは、喜ぶべきことではないかと思う。

 もちろん、目指すべき次のステップもある。厳しい笛が吹かれようが、逆に甘いジャッジが下されようが、それは日本における外国人選手が依然として「特別な存在」であるからに他ならない。「受容」の次にあるもの、それは「日常」である。外国人選手が、外国人であることを意識しなくなる、させられなくなるような日常の構築は、日本が世界と戦っていくうえで是が非でも取り組んでいかなければならない課題である。



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