どこぞに俺のドッペルゲンガーがおるんかいな。そう思ってしまうようなコメントが届いておりました。デブピエロさん、あなたのことです。
スポーツは文化です。よく聞くフレーズです。
要するに日本にはスポーツは無かったと言うことです。
無かった文化に当てはまる日本語は無くて当然やと思います。
文化と呼べるまでには時間が必要やないかな。
皆がこうやって話題にあげてより良くしようとしていれば
一世紀後にはスポーツは文化になってると思います。
まさしく、わたくしめもそう思っておりました。おりました。つまり、過去形です。日本にスポーツはなかった。だから、仕方がない。時間の経過を待つしかない。そういう前提に立っていたからこそ、スポーツを和訳しようなんて発想が根本からなかったわけです。そんなことしたってしゃあないやん、てな感じで。
スポーツは外来のもの。日本にはなかったもの。だから誤訳されて、だから軽い。
本当にそうでしょうか。
スポーツというものの出自を考えてみましょう。何度も繰り返すようですが、娯楽だったわけです。空いた時間を楽しく過ごすため、日常の憂さを晴らすため、他人、あるいは他の集落に勝つ喜びを味わうため。競技人口が増えれば、共通のルールが必要になってくる。洗練もされてくる。そうして生まれた数多のスポーツが、ときには帝国主義とともに、ときには覇権主義とともに広がって行った。ま、基本的にはそんなところでしょう。
空いた時間を楽しく過ごすため。日常の憂さを晴らすため。他人、あるいは他の集落に勝つ喜びを味わうため。
なんだか、ある種の祭りと似てませんか?
日本全国には、数多くの祭りが存在します。そして、その中には、欧米で生まれたスポーツと極めて似通った部分、つまり「コンペティション(競争)」をイベントの主軸に置いているところが数あります。
たとえば、博多の山笠。これがスポーツではないという理屈が、カネコタツヒトには見つけられません。参加者の運動量は、おそらくはサッカーにおけるゴールキーパーのそれをはるかに上回っているはず。みんなが身体を動かし、汗を流し、そして、楽しむ。
では、スポーツ=体育ならば、山笠=体育でもあるのか。
違うでしょ。
体育が生まれたのは、せいぜい明治に入ってからのこと。山笠は、鎌倉時代から続く祭りです。山笠だけじゃない、日本中には、平安時代から、奈良時代から続く祭りがいくつもあります。
国民の心身を健やかに保つため、だとか、そのことによって精神力を鍛えるため、なんて理由があったからでしょうか。違う。楽しかったから、でしょ。
第二次大戦中、当時の日本では多くのスポーツが中断に追い込まれました。「この非常時に」というのがその理由です。
山笠はどうだったか。戦局も押し詰まってきた昭和19年。祭りはいつものように開催されました。開催されなかったのは、昭和20年のみ。それも、大空襲によって博多の街が焼け野原になってしまったから、というのが理由でした。驚くべきことに、終戦翌年の昭和21年には、子供たちだけが参加するという変則的な形とはいえ、すぐに山笠は復活します。さらにその翌年の22年には、全面的に復活。
非常時である以上、スポーツは中断に追い込まれても仕方がないと考える日本人が多数派だった一方で、祭りだけはなんとしてもやると考える人間が多数派だった日本もあったのです。
ご存じの通り、いまは100年に一度の不況だとか。日本のスポーツ界も、その余波をモロにかぶっているのが現状です。
でも、ゆえに山笠が中止になりそうだという話は、幸いにして聞こえてきません。ウチの父親の田舎は長野県の諏訪市なのですが、来年は御柱祭が当然のように開催されることでしょう。
だって、みんなが楽しみに待ってるんだから。
日本人にとってスポーツは軽い。このコラムの中で、カネコタツヒトはずっと言い続けてきました。でも、もしスポーツが娯楽だという前提にたつのであれば、つまり祭りと同じ意味合いを持つのであれば、日本人にとってスポーツは軽くない。断じて、軽くない。欧米にスポーツが生まれるはるか以前より、スポーツ的なイベントを楽しんできた歴史とメンタリティがこの国にはある。
ならば、なぜこんなことになってしまったのか。
スポーツという英語が体育と誤訳され、本質として持っていた娯楽の部分が削除されてしまったからこそ、軽くなってしまったのではないか。すっかり和製英語として定着しつつも、依然として欧米人が「SPORTS」という単語を見聞きした時とはいささか違う受け止め方をしてしまっているからこそ、娯楽をイメージさせる新しい和訳を考える必要があるのではないか。
そう思ったのです。
スポーツは、娯楽である。スポーツは、祭りである。そのことを訴えたくて、書き始めた「体育にまつわるエトセトラ」でした。細かい部分でまだ書き切れてないところはありますが、基本的にはお伝えしたいことはすべて書き切りました。ひとまずは、すっきり。
でもって、みなさんに受け入れられるかどうかをともかく、まずは自分が「動楽作家」を名乗っていこうと思います。ホントは動楽者がいいんですが、ご指摘にあった通り、直訳するとスポーツマンになってしまうもので。で、過去の金子塾塾生やしもべとして働いてきた人間には、どんどんとこの名称を使うようにと強制......もとい、お願いします。もしかしたら、ホントにあと何年かしたら、この造語が日本語として認められるかもしれないと夢見ながら。




「スポーツは、祭りである」。
この一文で、私は金子さんのファンになりました。
まったく、その通りだと思います。
踊るアホウに、観るアホウ。同じアホウなら、踊らにゃ…
サッカーにも野球にもマラソンにも当てはまることですね。
もちろん、ある御輿を担ぎたくても、身体的理由でできない人もいます。
でも「参加」はできる。
どんな形でも、祭に参加することはできる。
楽しむことができる。
願わくば日本の全ての動楽祭が、盛り上がり続けますように。
世界の祭のひとつになりますように。
明治時代には西欧からいろんなものを輸入して、「日本」という新しい枠組みを造り出したんだろうと思います。
Architectureアーキテクチャの訳語は当初工学的な意味合いの強い「造家」でした。
明治時代に美術や芸術という概念が発明されていく過程で「建築」と改名されたそうです。(これも当時カネコさんみたいに強烈に改名を主張したある建築家の存在があったようです。)
そして「建築」はそれまで存在しなかった「日本」という枠組みをカタチづくる制度のひとつとして機能していくことになります。
「体育」もまた「日本」という枠組みを生み出す為に必要不可欠なしくみだったと思います。
「国民」を再生産する大切な装置だったと思います。
現代はそんな制度や装置がなくても社会はまわります。
こんな時代だからもう一度いろいろ考えてみるのも面白いですね。
初コメントです。以前の拳組でもちょくちょくコメントさせて
もらってた、『「敗因と」販促委員』だった書店員です。
拳組解散(?)以来、バルサTVや、スポニチコラム、FC琉球
でのブログ等々でカネコさんの動向は確認しておりましたが
いつの間にこんなサイトが…しかも興味深いテーマが進んでい
たのに、最終回とな。
正岡子規のように、「スポーツを動楽と訳した人物」として
それこそ何年後かの歴史の教科書に載ってたら素敵ですねえ。
日本のスポーツの扱いは確かに低いですよね。
今の不況下で、例えばサッカーにかける費用を減らす、中止にするといったことがおこりうる感じがします。
しかし、反面今も野球やサッカーは例年以上に盛り上がっている。日本におけるスポーツの扱いも二、三十年前に比べるとだいぶ上がったのではないかと思います。
FC琉球ホーム初勝利おめでとうございます。決めたのはやっぱりエースの山下ですね。やっぱりエースです。これからの活躍も期待しています。
今回のスポーツ≠体育はとても腑に落ちました。
そして、頭に浮かんだのは色つき柔道着問題のこと。
日本人は柔道=体育なので、色つきなんてもってのほか。
海外の人は柔道=スポーツなので、楽しむために必要だから。
なのかなと思います。
スポーツの祭典と呼ばれるオリンピックに、柔道が種目になったときから日本人は混乱しているのでしょうか。スポーツ=体育なのか、スポーツ≠体育なのかって。
同じオリンピックの1種目なのに、方や参加することに意義があるって言ったり、方や国の威信を賭けてって言ったり。
スポーツが動楽になるには、何が動楽で何が体育か分ける必要があるのかなと思います。
動楽:サッカー、ベースボール、ゴルフ
体育:柔道、野球、剣道、相撲
これだと、阪神のことを書こうとすると体育作家になってしまいますが。
こんにちは、初めてです。体育、スポーツ。最近これらの言葉がよく目に留まります。で、東京ドームにある「野球体育博物館」って私は行ったことないのですが、どんなところですか?
<体育会系>という言葉について、金子さんはどう思いますか? まさしく軍隊的というか・・・。その一方で就職活動では、アドバンテージにもなりそうですし。
いやいや名指しは勘弁で、こっぱずかしいですから。
言葉は深いですね。さすがライターさんは拘らはります。
普段は「キャッチコピー以外誰も読まんて」と愚痴りながら
レイアウトしてるデザイナーなもので(笑)。
こういった深いテーマはチョイチョイにしてくださいね。
仕事中に考えてしまって捗りません(笑)。
話は大きく変わって…
いまから来シーズンのリーガ中継での動楽作家のコメント(解説?)が
待ち遠しくてたまりません。
レアルのすげ〜い、げす〜い補強に対しての第一声が気になります。
カカ、クリロナ、ベンゼマさらにはリベリお前もか?
300億ですよ!!!
あれはスポーツと呼べるのでしょうか?ラテンの血がそうするのですか?
僕の感覚としても、スポーツは「プレイ(遊ぶ)」に対して体育は「学習(学ぶ)」になります。
体育ではないですが、僕は子供のころあまり素行がよろしくなかったので、親からよく「柔道か剣道でも習って精神を鍛えろ!」などとよく言われていました。(ちなみにどちらもやってません)
つまり日本人には「柔道、剣道」=『習い事』という認識が強いのだと思います。これが海外では「柔道、剣道」は単なるスポーツであり、「精神を鍛える為」に柔道始める人はほとんどいないんじゃないかと・・・
これは僕の経験談ですが、僕は子供いないですが、子持ちの方に「お子さんに何か習い事ってさせてますか?」と聞くと定番の「柔道、剣道、習字、ピアノ、バレエ、水泳」に加え最近は「サッカー」が含まれていたりします。
これが野球になると「習い事のほかに野球もやっている」なんて回答が帰ってくるので、サッカーとの差を感じてしまいます。
サッカーがいつか「習い事」でなくなる日が来るといいなぁ。
動楽良いですね。最高です。 いきなり、質問ですが、松田直樹君と小笠原満男君は代表復帰できますか?
カネコさんはどう思いますか?
コメント頂ければ幸いです。
なかなか自分で生み出した造語を世に浸透させていくのは難しい作業だとは思いますが頑張って下さい。
陰ながら応援させて頂きます。
そういえば、一つ気になった点が。
以前のコラムで「スポーツが現実を変える力はなめられないが、たかがスポーツというのも事実」という趣旨のことを言ってましたよね?(確か一人称の話の中で)
でも、金子さんは今の日本スポーツが軽く考えられている状況を大きな問題と考え、「動楽作家」という造語を自ら作り、そして今後名乗ろうとしている。
今後この言葉を日本に本当に浸透させようとしたら、時には嘲笑に耐える必要も出てくると思いますし(この金子っていうおっさん何言ってるの?みたいな)、その作業はなかなか順調にはいかないでしょう。多分。
そこで僕はふと金子さんってそういうバランスをどう取っているのか疑問に思いました。
つまり、「スポーツが軽いのは良くない!だからその状況を変えるために自ら行動を起していくんだ!!」という気持ちと「でもたかがスポーツっちゃスポーツだよね」というアンビバレンスな感情のバランスはどう取っているのかなーって。
まあ、そういう話はいっか。
金子さん、どうもです。
ついに最終回ですね。大変勉強になりましたし、またきっかけとなりました。
「スポーツ=娯楽・祭り」とするならば、まずは雰囲気作りが必要になるのですかね。そう思うと、この国の「箱」は非常に感情の無い箱ばかりで、スポーツを楽しむ要素が欠ける要因の一つに挙げられると思うわけです。
唯一箱として雰囲気を楽しめるのは、相撲の両国国技館・野球の甲子園と、最近では松田スタジアムぐらいですかね。サッカーも見に行くのですが、残念ながら箱としては魅力を感じるのは、かろうじて埼玉スタジアムぐらいですかね。
自分はドームが大嫌いです。有気質でなく無機質な空間に加え、コンクリートのような硬そうな人工芝。あれでは、ダイナミックなダイビングプレーが見れない。それは「ファンの楽しみを一つ奪っている」という事に繋がると思います。予想を超えたプレーや、白熱した試合を見たときの感動こそが、見る側としてのスポーツの価値だと思うわけです。そういう価値を生み出すのも、箱の役割は小さくないだろうと。
そう思うと、祭りを楽しむには屋台が必要不可欠であるように、スポーツにも「箱は必要不可欠なんだな~」と改めて感じた次第です。
アメリカに行った時に見た、フェンエイパークは素晴らしかった。ヤンキースタジアムも、入った瞬間にゾクゾクとしました。 日本にも、早くこういう箱とスポーツの関係を築いて欲しいと。それには、金子さん仰る「動楽者」がスタジアムの設計に関わるべきですし、そうしないと無機質な箱が増えるばかりで、スポーツが娯楽と見られる日なんて、全く見えてこないと思うわけです。
それはそうと、スポーツ基本法。
これは元プロレスラーで現自民党員の馳浩さんのブログに、事の成り行きや現状の自民党や民主党などのやりとりが書かれて、非常に参考になると思われます。
「動楽作家」としての初めの仕事として、馳浩さんにインタビューして「新スポーツ基本法」の与党案などどうなっているのか?と、聞きまくってみてはいかがでしょうか。
やっぱり、説得力あるなあ。最初は「うえっ」と思った動楽者も、読み終えたときにはもうそれ以外ないやん、という気になってしまいました。歴史を知って未来を憂いて、いま語る。近視眼なおのれがこっぱずかしいですわ。
でも、こんだけ言ってでもって事はないのでしょうけど、でも、やっぱり一つだけうーんが残ってしまうのですよ。どうしても僕には、スポーツと娯楽がイコールだとは思えない。近似ではあるだろうけど。スポーツと娯楽を繋ぐ物、それが動楽だと言われたらものすごいスッキリします。それが体育イズムなのかもしれませんけど。
文学好きの人間としては、スポーツはとんでもなく重い物だと考えたいのです。スティーブンキングの本を国民の二人に一人が持っている国があるのに、争いが終わらない。そんな文学の限界をスポーツなら変えてくれると信じたいのですよ。スポーツは争いと協調、自由と共産、感動と落胆、そんなあらゆる矛盾を、争いに嫌気がさした民衆が無意識にアウフヘーベンし続けているものなんだと思いたいのですよ。お祭りに有事を止める力はなかったけど、スポーツにはあるのだと。
話しがそれまくってしまいました。
以前に立川談志さんが、日本人は文化を守るのを放棄してると言っていました。金子さんのような方が発言し続けてくれないと、祭りさえも中止にしかねない国になってしまっていると思います。視聴率が悪くなれば、平気ではんにゃを座布団運びにするのが今のメディアでしょう。
期待していたレッズランドも、拡大する気配がありません。始まった当初は、街中の公園がレッズランドになって、無償でボールなんかを貸し出してくれたら、なんて夢想を描いていたのですが。
まあ、何はともあれ、問題は山積しています。動楽が漢字変換の二番目に初期設定されているようになったら、そんな問題の幾つかは解決されているのではないかと期待しております。がんばってください。
お恥ずかしいながら。「山笠」と聞いて、まったくピンときませんでした。博多の方に申し訳なく思います。急いでネットを使い調べてみましたら、これか!と、納得。確かにこりゃすごい。金子さんが言う、山笠がスポーツではないという理屈が見つからない理由も分かりました。
何度も何度もコラムを読み、そこでふと考えました。
ちょっと金子さんとは違ったアプローチです。(同じかもしれませんが・・・)
スポーツは祭り。であれば、各スポーツ大会に「天皇杯」と呼ばれる催し物がありますが、これもいささか無関係ではないのでしょうか?
天皇杯(正確には天皇賜杯)は読んで字の如く、天皇から賜った杯、これが日本一のチームに送られるんですよね。
天皇は日本の祭祀王です。
祭りを司る者。その方からの杯。
なんとなく関係が大有りな気もするのですが・・・。
祭りとスポーツという、呼び方の違いはあるにせよ、この日本で、スポーツと祭りが一緒に考えられてきたという事実が意外なところ(?)に隠れていたように思います。
日本という国、そして日本人は古来より祭祀、祭りを大事にしてきました。この精神が今の日本人にもあるならば、スポーツを重んじる気持ちがあってもおかしくないのでは。
そうして考えると、「スポーツは、祭りである」という金子さんの言葉がよりリアルに感じられるのです。
「スポーツは祭りである」ですか、良いですね。
もう一声どうでしょう。
僕の中では「スポーツは遊びである」ですね。
私の中では体育≠スポーツで、体育はスポーツに内包されている感じです。
ただ金子氏が指摘する城くんのケース、清原さんのケースなどを見ても一般的には体育=スポーツの摺りこみは相当されていますね。
ただ、気になる点が一つあります。
スポーツを和訳しなくてはダメ?
スポーツ=スポーツ、体育=体育、スポーツ≠体育ではダメ?
個人的にはカタカナ英語はすでに日本文化の一つなのでありかなと思います。
『動楽』で少し気になるのが、金子氏の好きな麻雀やチェス、囲碁などのマインドゲームも近年欧米ではスポーツと考えれられています。そうなると厳しいですね。
この問題はここ15年くらいでよく議論されてきた問題ですが金子氏のように影響力のある方が発信することは大変意義のあることだと思います。
このような啓蒙活動を続けて数年後には政治家となりスポーツ省を設置し文化となるような働きかけをするっていうのはどうですか?
ありだと思います。
もしスポーツを娯楽であると認め国民の義務であるとなるならばそれに対して税金を使うのに一切の疑念は持ちません。
平地の少ない日本において十分な土地を確保するのは並大抵ではありません。
やはり地域住民しかり行政も手伝ってのスポーツ振興がなされ安価にみんなが使える環境を作らないと進展していかないのじゃないかと。
平日の運動場やテニスコートがまったく利用されてないの見ると利用したいわしにとって悲しくなりますね。
公園や緑地整備した芝生を立ち入り禁止にしたりとか何のための施設?って悲しくなります。
日本に誇りを持ちたくなくなるときってあるのが悲しいですよね、こんなにも美しい国なのに。
山笠がスポーツと呼べるものなのかは、しっくり今きません。だって毎週末するものではないし、仕事が早く終わって余裕があるときにできるものでもないから…。競技として順位を決めるルールがあるものもあれば無いものもある。
ただ、あれがものすごい疲れる運動量を要するものであり、物理的にスポーツに通ずるものがあるのは十分にうなずけます。そうですね日本にもスポーツに通ずるイベント、つまり祭りがあり、日本人はそれを長い期間愛し続けてきた民族だと。だから今あるスポーツに対して同じ感情をもてないことは無いという意味にとってよろしいでしょうか?
日本の柔道や横綱のメンタリティーがブラジルのサッカー代表選手に通ずるものがある、だから日本のサッカーもやれないことは無いとか、戦争で相手を攻撃できるのは無知ゆえとか、さすがベストセラー作家さんですね。一理あると思います。
工学部出身の僕からみれば、このセオリーは純学問の理学でしかないと思うんですよ。カネコさんは立派な理学者ともいえます。おっしゃることはな得です。ただ社会にスポーツを広めていくためには工学のように実際に具体的に展開しなければなりません。これがほんとに難しいのですよね…。
音楽にも麻雀にもカラオケにも外部からの強制は(一部の例外をを除いて笑)ありません。なぜならこれらは娯楽なので行うこと自体を楽しみ、学校の部活動を母体とし、競技として競うことを目指した体育とは土壌も本質も違うからだと思います。体育や部活は勝利が何よりの目標ですし、楽しむなんて要素は必要じゃなく、勝つことは苦しむことで、楽しさなんて悪であるといったようなところでしょうか。
カラオケなどのように余暇に娯楽として体を動かすスポーツにお客さんはお金を払いますが、教育としての意味合いを持つ体育に誰もお金を払いません。お金を払ってわざわざ苦しい目を味わうなんて娯楽じゃないですし。これもスポーツと体育が異なり、体育と娯楽が異なるという証拠ですよね。
スポーツが体育として学校単位で広まったのも体、心を鍛えるためで、当時の政府が娯楽としての要素を学校に持ち込んだりするはずがないですものね。国民のお金を使って教育に娯楽を持ち込むなんてけしからんなどといった意見は今でもまかり通りそうな考えですし。
考えれば考えるほど改めてスポーツと体育は本質的に違うもので、体育は娯楽ではないんだなぁと思い知らされました。動楽。今はまだ抵抗がありますが。いつかこの抵抗が定着に変わる日が来るのでしょうか。
カネコさんのおっしゃる、日本にもスポーツ的なイベントを楽しんできた歴史とメンタリティあるという意見、同感です。カネコさんは祭りを例に挙げておられましたが、私は相撲を想像しました。しかも、プロの力士が国技館で四つに組んでいる姿ではなくて、鳥獣戯画でうさぎとかえるがどこかの空き地で取っている、あの姿です。あの絵はまさに、日本人が古来から、娯楽としてのスポーツを遊び、楽しむ文化を持ってきた象徴であり、誇りに思ってよいことだと思います。
(余談ですが、東京オリンピック誘致やW杯日本単独開催が成功したら、是非彼らをオフィシャルキャラクターにして欲しいです。)
また、相撲と祭りは神事と深い関わりを持つ点でも共通していますね。
で、いつからスポーツ=体育にすり替わってしまったかですが、明治維新における「和魂洋才」、日本の伝統は古くさい・時代遅れだと早急に切り捨ててしまい、それまでの価値観の多くが断絶させられてしまったせいではないかと考えています。
「動楽」という言葉、すてきですね。個人的には、「遊」の字が入ると良いのですが字余りですし。「どうらく」と打って一発で「動楽」と変換される日が来るのを祈っています。