ゴールとは才能の賜物(たまもの)である――わたし自身、長くそう信じてきた。コーチの方々と話をしていても「守り方、崩し方は教えられても、点の取り方だけは教えられない」という言葉をよく聞く。釜本邦茂は不世出のストライカーだった。ゆえに彼はゴールを量産することができた。日本代表が得点力不足に悩まされるのは、神が釜本に次ぐ才能をこの国に与えてくれないからに他ならない――。
だとしたら、本田圭佑のケースはどう説明したらいいのだろうか。
名古屋時代の彼は、その攻撃的な才能こそ高く評価されていたものの、決して得点力のある選手ではなかった。にもかかわらず、フェンロで2年目を迎えた昨シーズンの彼は、それまでのプロ人生で積み重ねたのよりも多くのゴールを、たった1シーズンで記録してしまった。
本人の言葉によれば「ゴールとアシストに同等の価値を見いだしていた」のがグランパス時代だったという。これは、日本人のMFにとりわけ強く見られる傾向と言っていい。ゴールゲッターとして花形となるのではなく、縁の下の力持ち的な立場にあえて甘んじる。そういうスタイルが、国民性にマッチしているのかもしれない。
だが、北京五輪で深い失望を味わったことで、本田は考え方を変えた。求められるのは内容ではなく結果。結果に直結するのはゴール。ならば、とことんゴールにこだわってみる。「自分のサッカー観を否定することでもあった」という意識転換に踏み切ったことで、彼はそれまで知らなかった喜びと出会うことにもなった。
それでも、昨年の本田がゴールを量産したのは2部リーグで、かつ、フェンロは昇格を有力視される存在だった。取って当たり前――そんな見方があったのも事実である。
そして迎えた新シーズン。ひとまずフェンロに残留した本田は、昨シーズンとはまるで違う立場で戦うことになった。ほとんどの相手は彼のチームより格上。チャンスは少なく、ピンチは多い。点を取る立場の人間には、極めて難しいシチュエーションである。
ところがどうだろう。開幕戦でゴールを決めた本田は、続く第2戦でも2ゴールを挙げてみせた。しかも、そのうちの1点は本人が「あまりにも少なすぎる。今後の課題」と口にしていた頭でのゴールだった。
ゴールに才能が必要ない、とは思わない。だが、欧州の強豪からも注目されるようになった本田の得点力を見ていると、つくづく思うのだ。ゴールとは、意識の産物なのではないか、と。



