株式会社クロス・ビー

COLUMN


「そりゃ、監督である以上、負けてもいい試合なんてあるわけがない。ただ、ワールドカップ9カ月前のこの時期に、勝つためにガチガチの守りを固め、ラッキーパンチ1発で勝つことにどんな意味があるだろう。必要なのは教訓であり課題。それが見つけられるのであれば、0-5であっても無意味ではない」
 
 実は、あまりにも気恥ずかしいのでこのブログでは告知しなかったのですが、オランダ戦の当日、トルシエとディナーショーなるものをやってまいりました。定価2万8000円。正直、「誰が来るんだこんなショー」と思わないこともなかったのですが、ありがたいことに会場は満員。で、衝立一つで仕切られた控室で「何を話したらいいんだろうね」と相談していたところ、トルシエの口から出てきたのが冒頭の言葉でありました。
 
 必要なのは教訓と課題。だとしたら、ガーナ戦の収穫はホントに大きかった。
 


 ま、「騒ぐな騒ぐな」って感じじゃないのかな、岡田監督からすれば。

 場所はオランダ。相手もオランダ。時期はワールドカップ本大会の9カ月前。監督からすれば、いろんなことを試せる絶好の機会。勝てば自信になるし、負ければ修正ポイントが見つかる。もちろん、監督である以上、勝負に勝ちたいのは当然としても、それ以上に欲しかったのは「いろいろな意味での収穫」だったはず。

 だいたい、もし本気でオランダ相手に金星を狙ったのであれば、後半の立ち上がりからメンバーを入れ換えるはずがない。

 前半の日本の出来、悪くなかった。なぜ悪くなかったかと言えば、中盤の遠藤、長谷部のバランスが抜群だったから。もちろん、バランスっていうのは2人だけで成立するものじゃない。周囲の顔ぶれやフォーメーションによって成り立つ化学反応の成果みたいなもの。でもって前半のスコアは0-0。これがワールドカップ本大会であれば、間違いなく岡田監督はそのままのメンバーで後半を迎えたはず。

 でも、岡田さんは動いた。なぜか。オランダ・クラスの相手に中村と本田の併用が可能かどうかを確かめたかったから、だと思う。ただ、一応は勝負にこだわる思いもあって、それが「中盤の誰かに代えて本田」ではなく「玉田に代えての本田」になった。できるだけ中盤のバランスを維持しつつ、でも、新しいことも試したいという、言ってみればちょっと欲張りな采配。

 で、わかったことがある。「オランダ・クラスの相手になると、現時点での中村、本田の併用は難しい」ってこと。

 オランダ戦での本田を見ていて思い出したのは、アルゼンチンのリケルメ。すんごいテクニシャンで、芸術的なプレーを披露する選手ではあるんだけれど、それはあくまでも周囲が彼を「王様」として扱った場合の話。歯車の一員として使われると、きれいさっぱり試合から消えてしまうことも少なくない。

 フェンロでの本田は王様。だからボールに絡めるし、ゴールも奪える。日本代表での本田はワン・オブ・ゼム。周囲の選手は、まず本田にボールを預ける......のではなく、まず中村を探し、本田はいくつかある選択肢の一つでしかない。

 ただ、「上手くいくわけがない」と言われながら、結果として「夢のサッカー」を展開した72年のネッツァー&ベッケンバウアーみたいに、時として予想もつかない化学反応が起きることがあるのもサッカーなわけで、岡田さんとしては、そういった部分に期待しての起用だったんだろう。

 でも、科学反応は起きなかった。本田はアタッカーじゃない。スピードはそんなにある方じゃないから、サイドアタックを任せられても厳しい。かといって、彼がプレーしたいエリアには中村がいる。中村にだってプライドはあるし、いまのポジションは彼が自分の力で勝ち取ったもの。譲るはずがないし、そんな必要もない。これで相手がもっと弱くて、ボールに触る機会がヤマほどあるならいざ知らず、前半のプレーぶりにブーイングを浴びてしまったホームのオランダが相手となると、両者の併用は厳しかった。たぶん、ファースト・クラスのチームを相手に、岡田さんが中村と本田を併用することは、これでなくなったんじゃないかな。

 終盤の3失点に関しては、本田の責任じゃない。単純にチーム全体の運動量が落ちたから。でもって、もし岡田さんが勝負にこだわっていたのであれば、後半20分あたりの段階で元気のミッドフィールダーを投入したはず。たとえば、内田の一つ前のポジションにね。でも、あえて岡田さんが火ダルマにされつつあった内田を放置したってことは、若い彼に世界のファースト・クラスの攻撃を肌で感じてほしかったってことでしょ、きっと。

 というわけで、岡田さんにとってはいろいろな収穫があり、今後の指針を決定していく上でのヒントとなる試合だったとは思うのだけれど、個人的にはいささか引っかかるところもある。

 前半のサッカー、確かに出来は悪くなかった。でも、あれを「90分続ける」っていうのは、マラソン・ランナーに42・195キロを「1時間50分で走れ」っていうようなもんじゃないかなって気がするのだ。

 目下のところ、マラソンの世界最高記録は2時間3分59秒。1時間50分にプラスすることたったの14分。でも、この14分を削るのは、当然のことながら至難の業。削り取れることのできる人類は、いまのところ地球上には存在しない。

 地球上に90分間フルにプレッシングをかけられるチームが存在しないように、ね。

 もし、百歩譲ってそれが人類に可能だとしても、代表チームで実現させるのは難しい。できるとしたら、毎日のトレーニングを実施することができるクラブでの話。各々が違うクラブ、違う国でプレーする代表チームで、全員が鉄の肺になれっていうのは無理。

 もちろん、記者会見における監督の言葉を鵜呑みするわけにもいかないから、岡田さんが本音の部分では違った答にたどりついている可能性も否定できない。ただ、もし本気でオランダ戦前半のサッカーを90分続けようとしているのであれば、南アフリカでの日本代表は後半に失速する試合ばかりになってしまうだろう。カイザースラウテルンでのオーストラリア戦のように、暑さでバテたっていうのならばまだわかるけど、9月5日のオランダは、冷たい雨が降る初冬のような気候だったんだから。

 現実的なのは、ほぼ破綻がなかった前半45分のサッカーを、どれだけ引き延ばすことができるか。相手が来ないところでいかに力を抜くか、ということ。「あ、ここは休んでも大丈夫だな」という個人の感覚を、いかにチーム全体として共有できるようになるか──。

 ま、個人的には3失点したことよりも、ほとんどチャンスが作れなかったことの方がはるかに頭の痛い問題だとは思う。いい時間帯でさえ、決定的な場面はほとんどなかった。ま、だからこそ岡田さんは本田と中村の併用にこだわったんだろうけれど。

 明日はガーナ戦。一つ頭に入れておかなきゃいけないのは、どんな結果になろうと、明日のガーナは本物じゃないってこと。2000年、モロッコで戦ったフランス代表が本物じゃなかったように、中立地で戦う相手は本物じゃない。まして、ガーナはワールドカップ出場を決めた直後。達成感、安堵感で一杯の選手たちが、中立地での親善試合にそうそう頑張れるとも思えない。

 なので、明日はきっちり勝っておかないと。ただ勝つだけじゃなくて、内容で相手をチンチンにして勝っておかないと。


 そうだ、京都に行こう......はJRのCMでしたが、木曜日の朝、テレビを見ていたら「今日はETC平日割引です」とのこと。そうだ、奈良に行こう。インターハイを見てこよう、とはいうわけで行って参りました。

 結論。混む。

 東京から奈良までは500キロ弱。ま、6時間も見ておけば着くだろう......と考えたのが甘かった。渋滞抜けたらまた渋滞。普段、どうやったって渋滞にならないところでも渋滞。結局、行きは7時間半、帰りにいたっては11時間もかかってしまいました。

 でも、どこまで行っても1000円っていうのはやっぱり嬉しい。ウチでワンコが留守番していなかったら、そのまま広島まで行って阪神戦でも見てこようかなと思ってしまったほどでした。

 しかも、そのクルマがプリウスだったりしたら!

 ぶっちゃけ、カネコタツヒトとしてはいわゆるエコカーなるものにあんまり興味はありません。エコカーといえどもガソリンを使うことに違いはない。なんだか、セブンスターは身体に悪いけどキャスターは身体に優しい......と言われてるようで「だったらクルマなんかに乗らない方がよっぽどエコなんと違う?」と突っ込みたくなってしまうのです。

 ただ、先週東京から富士スピードウェイまで新型プリウスで行ったのですが、平均燃費がリッターあたり40キロまで行ったりする区間もあって、まあ少ないガソリンで走ること走ること。一度満タンにすれば、東京-大阪間をラクラク往復できてしまう計算です。地球に優しいかどうかはわかりませんが、財布に優しいことは間違いない。渋滞さえ我慢できれば、大阪で単身赴任してる東京のお父さん方は、居酒屋での飲み代1回分を我慢するだけで、毎週末に自宅に帰ることも可能でしょ。いやあ、すげえ。

 ところで皆さん、ゾーラ・バットという名前、ご存じでしょうか。「裸足の天才少女」と呼ばれた南アフリカ出身の陸上競技選手。若くして世界新記録を出しながら、アパルトヘイト政策ゆえ、ギリギリまでオリンピック出場が危ぶまれた選手でもあります。

 でも、結局彼女はロサンゼルス・オリンピックに無事出場。なぜか。イギリス国籍を取得したから。
 
 なぜそんなにも簡単にイギリス国籍が取得できたのか。南アフリカが、元英連邦の国だから、なんですねえ。

 アルゼンチンとスペインのように、旧植民地と旧宗主国の関係でありながら、前者の方が後者をバカにする......なんて例外はありますが、基本的に、旧宗主国にシンパシィを感じるヒトが多いのが旧植民地。メキシコ・ワールドカップでも、スペイン代表は熱狂的な声援を受けていた記憶があります。

 ま、英連邦の場合、植民地とはまたちょっと意味合いが違うのですが、ただ、カネコタツヒトとしては思うわけです。

 アフリカの6チームもホームとして戦うけど、イングランドもホームなんと違う?

 むろん、イングランドがアフリカのチームと対戦するときは別でしょう。ただ、それ以外の国とやる時、スタンドはほとんどイングランドの応援に回るんじゃないか。

 しかも、基本的に南アフリカの公用語は英語。イングランドの選手は、記者は、ファンは、普段自分たちが使っている言語でワールドカップ期間中の日常を送ることができる。

 これは結構でかいでしょ。

 アフリカのチームが1つ、もしくは2つ。これが現時点でのベスト4予想の一部なのですが、今回はそこにイングランドを加えておこうと思います。残る1チームの予想は......次回ということで。


 ご心配、おかけしました。

 皆々様に置かれましては「あ、きっとドラクエにはまってる」と想像された方がいらっしゃったでしょうし(ま、当たらずも遠からじ、ではあるんですけどね。徹底的にやりこんで無事クリアしちゃったし)、カネコタツヒトをよく知る人であれば「またかよ」と思われたかもしれません。「病気が始まった」って。

 ん、確かに飽きっぽい人間であるのは事実で、過去、唐突にブログを更新するのがめんどくさくなって放り出したこともありました。ただ、今回の更新が遅れたのには、いろいろと事情がありまして。

 まず、あろうことか、選挙に協力することになってしまいました。

 プロ野球再編騒動の際、結構な数の国会議員と知り合う機会があったのですが、そのときに痛感したのは「ああ、この人たちにとって、スポーツって票集めの手段にすぎないんだな」ということ。いまになって思えば、あの時の経験が「スポーツにまつわるエトセトラ」を書いてみようという発想につながったわけですが、正直、「この人たちとは関わりたくないな」と思ったのも事実。

 じゃあ、なんで選挙に協力することになったのか。茨城県知事選挙に出馬することを決めた競輪選手の長塚クンから頼まれてしまったから。茨城の人間が茨城の人間であることに誇りを持てる県にしたい。そのためにスポーツにできることはないか、アイデアを貸してほしい......と言われてしまったから。

 えらいこっちゃ。まだどのような形で関わっていくかは詰めてないんですけど、決まり次第このブログでお伝えしていきます。

 言い訳その2。単純に忙しかった。試乗会があったり、打ち合わせがあったりで、ついついさぼってしまった。

 言い訳その3。これが一番こたえました。どうもここのところ、マイ・パソコンのご機嫌が麗しくなく、送ったはずの原稿が届いていないとか、あるいは送られたはずの原稿が受け取れないとかっていうことが多々あったのですが、ついに2週間前の日曜日、メールの送信が一切できなくなり、受信に関してもスパムメールばかりというハメに陥りました。たまらずパソコン・ショップに持ち込んだところ「これはじっくり見てみないとわからないですねえ」ということで急遽入院。その結果......。
「6つもやられてました。ウィルスに」

 そら機嫌も悪くなるわなあ。で、無事退院してきたのが先週土曜日。親指変換のキーボードじゃないと文字が打てない人間なので、ヨメのパソコンを借りるわけにもいかず、ホント、往生しました。

 ホントの言い訳。単行本の仕事が始まってしまったため。今度の取材対象は昭和の名優。ご本人とお会いし、スタッフの方と酒を交えての打ち合わせをしたりと、ドラクエの時間を削って頑張ってたわけです、マジで(笑)。しかも、最初の取材があまりにも面白かったもので、ついつい執筆意欲が刺激されてしまい、まったく別のジャンルの単行本を2冊書く約束までしてしまいました。合計3冊。おいおい、大丈夫かよカネコタツヒト。

 ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、恥ずかしながらわたくし、長いモノを書くという作業が好きではありません。95年にフリーになって、初めて書いた完全な書き下ろしは03年の『泣き虫』で、それまでに出た単行本は、基本的に雑誌に書いたものをまとめたものばかり。なぜか。書けないから。締め切りがないとついつい低きに流れてしまうから。去年出た古田本も、結局は出版予定が9カ月遅れました。

 そんな人間が、自ら「書きます!」と宣言して3冊も書き下ろしを約束してしまいました。で、だんだんと恐ろしさが込み上げてきて、なかばパニックに陥っていたのが先週1週間だったわけです。

 というわけで、次回から南アにまつわるエトセトラ、再開します。


 中華街に行って参りました。お店は行きつけの北京飯店。ここって、いっつも空いてるんですが、味は抜群。中でも北京ダックは北京や香港にも負けないお味。小龍包が上海並に美味しいのも嬉しい。宝塚から弟夫婦とその子供6人(!)が上京してきたということで、お子ちゃまたちに美味い中華料理を食わせてやろうと叔父サマとしては奮起したわけです。

ところが、肝心のお子ちゃまたちは北京ダックよりチャーハンと焼きそばに夢中。安くあがって嬉しいようなガッカリなような、複雑な気分でした。帰宅後はヨメからの冷たい視線にもめげず、ひたすらにドラクエ9。ただいま主人公「けんた」のレベルは23。転職しようかやめとくか、大いに迷う今日この頃です。

 さて、アフリカが来るか来ないか、どこが優勝するかしないかっていうのは、「つる」さんのおっしゃる通り、いまから有馬記念を予想しろというようなもの(ま、それはそれで楽しいんですけどね)。現時点で有力視されてる馬が故障することもあるだろうし、思わぬ才能の出現があるかもしらん。個人的には「ベスト4にアフリカが1つ」という現在の予想が「2つ」に変わる可能性もある。

 ただ、まず変わらないだろうと確信してる予想もあります。

 昔からサッカーを見ている口うるさいオヤジたちが「最近のワールドカップはつまらなくなった」とこぼしているのは、若い読者の皆さんもご存じでしょう。ま、かくいうわたくしめもその一人なわけですが、これって、必ずしもオヤジの懐古趣味だけではない部分があると思うのです。だって、もし懐古趣味だけが原因なのであれば、「最近のチャンピオンズリーグはつまらなくなった」という声も出てこなくてはおかしいじゃないですか。

 サッカーは少しもつまらなくなってない。なのに、ワールドカップはつまらなくなった。なぜか。

 ワールドカップが6月だから。つまり、夏の盛りに行われる大会だから。

 以前、ブラジルのプラカールという雑誌がアンケートを実施したことがあります。史上最低のワールドカップはどの大会か。答え、ダントツで94年のアメリカ・ワールドカップ。ブラジルが優勝したのに、それも24年ぶりに優勝したのに、ブラジルの読者はこの大会を史上最低として選んだのでした。確かに、個人的にもあの大会で印象に残っているのはバッジョが決勝でPKを外したぐらいで、「忘れられない試合」っていうのは皆無。ダラスとかマイアミとか、全身が焦げてしまうぐらい暑かったって記憶ばかりで。

 しかも、酷暑のアメリカでの大会であるにも関わらず、ヨーロッパのゴールデン・タイムに合わせるため、ほとんどの試合は真っ昼間に行われました。これじゃ、長いシーズンを終えて肉体的にヘロヘロの選手たちが、いいパフォーマンスなんかできるわけがない。サウジアラビアが決勝トーナメントに進出したことに象徴されるように、この大会は番狂わせが目立った大会でもありましたが、これも、原因として暑さが関係しているのは間違いない。フランス、アルゼンチンが早々に姿を消した02年の日韓大会もそうでしたが、暑さと湿度は大会のレベルを下げるのです。

 なぜチャンピオンズ・リーグは面白いのか。サッカー本来のシーズンである秋から春にかけて行われるから(ちなみに、今年のファイナルの内容がいま一つだったのも、ローマの暑さが関係しているというのがわたしの持論)。

 今度のワールドカップは、冬のワールドカップです。しかも、前回書いたように、参加32チーム中6チームがホームとして出場するワールドカップです。ホームチームが消えた時点で、開催国の熱はガクンと落ちる。ゆえに開催国は決勝トーナメントに進出して大会を盛り上げなければならない......というのがワールドカップにおける開催国のノルマでもあるのですが、6チームもあれば、かなりの確率で熱は長く続くことが予想されます。

 盛り上がらんワケがない。

 カネコタツヒトにとって、ワールドカップのベストゲームは82年のブラジル対イタリア。次いで同じく82年のフランス対西ドイツで、3番目が86年のブラジル対フランス。あ、70年の西ドイツ対イタリア、ブラジル対イングランドも捨てがたいし、実は82年のソ連対ブラジルも凄い試合だった......と、振り返ってみると、86年を最後に、ランクインしてる試合がないわけです。せいぜい、06年のアルゼンチン対ドイツが「まあ、いい試合だったなあ」というぐらい。

 でもですね、今度の南アフリカでは、文句なしにランクインしてくる試合が生まれそうな予感。名勝負が生まれる条件が、かつてないほど揃ってますからねえ。

 というわけで、南アにまつわるエトセトラ、予想第二弾はコレ。

「南アフリカ・ワールドカップは、21世紀最高のワールドカップとなる」

 あ、どうでもいいんですけど、86年のブラジル対フランス、74年のオランダ対ブラジル、このあたりの裏話を知りたい人っていますかね。小説の題材としてたっぷりソクラテスだのリベリーノだのに取材をさせてもらったんですが、ご存じの通り媒体となる雑誌が廃刊。宙ぶらりんのまま、放ったらかしになってるんで。要望があるようであれば、いつか「グアダラハラでの決戦にまつわるエトセトラ」とか「ヴェストファーレンの決闘にまつわるエトセトラ」とか、やってみようかな、と。

 さて、明日は長崎。美味いちゃんぽん食べて、琉球の勝利を祈るとしましょうか。


 


 なんとなんと、前回天野クンについて書いた際にちょろりと触れた競輪の長塚クン、茨城県知事選に出馬するそうで。すげえ。いつの間にか2人のお子さんのパパになってるってのもビックリだけど、知事に立候補っていうのはホントにすげえ。スポーツについて自分の言葉を持ってる人間だけに、これからどうなるか、すんごい楽しみです。

ちなみに「俺もああいう話題じゃなくて、仕事とかで評価される人間になりたいんですけどねえ」と苦笑していたのは、オトコの中のオトコ、オトコの夢の世界に生きるオトコ、天野クンでした。一度でいいから「ああいう話題」で騒がれたいって考えてるオトコ、少なくないと思うけどな。

さて、南アにまつわるエトセトラ、ここまでのところ、スペインの人気が圧倒的なようですな。う~ん、一昔前を思えば隔世の感があります。あれは2002年のワールドカッフ直前だったか、スカパーかなんかの直前特集で「スペインがベスト4ぐらいに入るのでは」と言ったところ、「だからスペインびいきはワールドカップがわかってない」と参加者中最年少だった36歳カネコタツヒトは評論家の皆さんに袋叩きにあった記憶があります。「スペインってワールドカップで優勝したことあったっけ? 勝ったことのないチームが勝てるほど、ワールドカップって甘いもんじゃないよ」って。

えー依然としてスペインはワールドカップの優勝を経験してはおりません。大会直前、評論家の皆さんがどのような予想をなさるのか、楽しみにしております。

 ただ、勝てるか勝てないかは別にして、現時点でのスペインが優勝候補の筆頭にあげられる後、このサイトに限った話じゃないはず。1発勝負のトーナメントではなく、総当たりのリーグ戦で世界一を決める「ワールドリーグ」のようなものがあったとしたら、優勝の可能性はより高いものになるでしょう。依然のスペインであれば泣きどころだったGKを含めた守備陣は高さ、強さでも負けなくなったし、同じく泣きどころだったストライカーもフェルナンド・トーレスがいる。中盤は文句なし。1-0で勝っている時に試合をフリーズさせることのできる選手がいれば、0-1で負けている時に攻撃を活性化させることのできる選手もいる。ベンチにもいる。まあ強いわな。

 ただ、ですね。

 昨年、南アフリカとガーナに行ってきたカネコタツヒトとしては、強烈に思うところがあるわけです。それはなにか。

 今回のワールドカップは、史上初めて、大陸全体で行われるワールドカップになる。

 どういうことか。前回のワールドカップはドイツで行われました。つまり、ドイツだけが、ホームのワールドカップを戦いました。2002年はどうだったか。日本と韓国だけが、ホームのアドバンテージを得ていました。

 06年、ドイツを除くヨーロッパのチームにホームのアドバンテージはあったか。02年、日本と韓国を除くアジアのチームは、それまでのワールドカップに比べて有利なところがあったか。

 まあ、なかったわな。

 つまり、ヨーロッパで開催されようが、アジア、南米で開催されようが、開催国以外に国にとってはニュートラルな大会、それが過去のワールドカップでした。あえて例外をあげるとしたら、70年と86年のメキシコ大会におけるブラジル、ぐらいでしょうか。

 今回は違います。アフリカから出場する国々にとって、南アフリカは間違いなくホームになるでしょう。理由は二つ。多くの出場国が不安視している南アフリカの現状に過剰な懸念を抱かなくていいこと。つまり平常心で大会に臨むことができるということ。そしてもう一つは、今回のワールドカップが、アフリカの祈りであり夢であるということ。

 世界の現状を鑑みた場合、アフリカでワールドカップのような巨大な大会を開催するのがどれほど困難なことか、一番よく知っているのはアフリカの人々かもしれません。そんな中で、できるとしたら南アフリカしかない。これも共通認識。日本なんぞよりはるかに昔からワールドカップに焦がれ、憧れてきた大陸が、ついにつかんだワールドカップ開催のチャンス。ドイツ・ワールドカップはヨーロッパ・ワールドカップではなかったし、日韓ワールドカップはアジア・ワールドカップではなかったけれど、南アフリカ・ワールドカップは、史上初めての「大陸ワールドカップ」なのです。南アフリカで、ガーナで、いろんな人たちと話をしてみて痛感したのがそのことでした。

 1つのホームチームと、31のニュートラルな立場のチームが争ったのが前回のワールドカップだとしたら、今回は6つのホームチームと、26のニュートラルな立場のチームが争う大会になります。

 6つのホームチーム、ですぜ。こんなワールドカップは、過去にもなかった。

 アフリカ選手権を取材して、一番驚かされたのが選手たちの闘争心。常識的に「あ、ここはどっちかが引くな」と感じるような場面に、両軍の選手が凄まじい勢いで突っ込んでいく。バルセロナでは賢いプレーの目立つトゥーレ・ヤヤのような選手が、全エリアで相手の足をへし折ってしまうんじゃないか、ぐらいの気迫でプレーしてる。で、ファンもそういうプレーに猛烈に反応する。なんていうか、アフリカに戻ると、アフリカの選手って肉体と理性のタガがいい意味で吹っ飛ぶんだなあって強烈に実感したものでした。大陸からエネルギーを注入されてるっていうか。

 そんなチームが6つ。しかも、その中ではずば抜けて弱い南アフリカが、コンフェデではそこそこ頑張った。残る5つのチームは、恐ろしく過酷な予選の真っ最中。勝ち上がってきたチームは、相当に磨かれてきているはず。

 というわけで、南アにまつわるエトセトラ、その予想第一弾。

4強のうち、一つはアフリカが来る。 


 お昼のワイドショーを見ていたら「あの美人バドミントン選手に恋人出現?」とのこと。ほうほう、そらスポーツ選手といえども人の子、恋の一つや二つはするだろう......と思っていたら、「お相手はあのイケメン実業家」ときた。おいおい、まさかまたアイツかよ......と思ったら、アイツでした。我が飲み友達の天野クン。

 仕事柄、数多のモテ男と出合ってきたわたくしです。才能に対する自信。肉体に対する自信。財力に対する自信。たぶん、女性にとってオトコの自信は強烈なフェロモンでもあるんでしょう。一流のスポーツ選手はたいていモテるし、モテた経験が、さらにそのオトコを男前にする。中田英寿なんかはその最たる例ですな。

 ただ、そんな中でも天野クンはいささか別格。なにせ、思いつくだけでもなんとかパンだとかなんとかクリステルだとかさらりとした梅酒だとか......。失礼ながら、びっくりするほどの男前ではないし、IT長者なんかに比べると財力もかなり控えめなはずなのに、常に日本を代表する美女がくっついてる。それでいながら、たとえば髙田延彦さんあたりから「出てこいや」と誘われれば「ハイッ」と飛び出してくるから、重心がオトコ付き合いの方にも向いているというか、同性にも好かれるタイプ。競輪の長塚クンなんかは心酔してるといってもいいぐらい。

 一体全体、どうやったらああいう人間ができあがるんだろ。

 ま、一つ個人的に思うのは、ラグビー、アメフトをやってきたオトコっていうのは、元サッカー小僧に比べると格段にモテるということ。あ、格闘家もまた然り。痛みに耐えるという経験が、面構えを男前に変えていくのかなあ、などと思ったりもします。俺なんか、相手のヒジが軽く触れただけで大げさに痛がってキーパーチャージをもらいたがる選手だったからなあ。

 さて、ここで皆様にご報告。まだ始まったばかりのこのブログに、早くも単行本化の話が舞い込んで参りました。それもこれも、皆様の異様に濃いコメントがあったからのこと。ブログが単行本になるのはカネコタツヒトにとっても初めての経験なので、ちょっと楽しみではあります。

 で、打ち合わせの席で出てきたのが「体育にまつわるエトセトラのように、一つのテーマを決めてキャッチボールをしていってはどうか」というお話。ん、それはいいっすねということで、早速次回以降のテーマを決めて参りました。

「南アにまつわるエトセトラ」

 来年のワールドカップはどんな大会になるのか。ベスト4進出を目標に掲げる日本代表の未来はどうなのか。皆さんからの意見なり質問なりを受け付けて、そこから展開していければと思っております。

 というわけで、第一回目は「あなたの考える優勝候補とその根拠」でいかせていただきます。コメント、お待ちしております。


 日曜日以来、勝利の美酒に酔いまくっておりました。いやあ、ホントに勝つっていいもんだ。今年の夏休みのスケジュールが未定の方、ぜひとも沖縄に遊びにきていただいて、琉球の試合をご覧になってみてください。8月16日のホンダロック戦のあとは、競技場横のビーチで選手、スタッフ、サポーター、家族......とみんな一緒になって大ビーチパーティーを行う予定。「カネコさんのために宮古島の美味い古酒をゲットしました」という嬉しい報告もすでに届いており、ああ、楽しみ。ブッ倒れるまで呑んでやる。

 あ、それとお知らせがもう一つ。実は以前からスポーツライターの大先輩、玉木正之さんと「若い人たち向けの養成講座みたいなのをやりましょう」という話が進んでおりまして、8月14日と15日、横浜桐蔭大学でその1回目をやろうってことになりました。講師は玉木さん、ゲスト、わたくし。詳しくは『論スポ』のホームページ、または玉木さんのホームページに掲載されておりますので、興味のある方のご参加、お待ちしております。

 さて、ひとまず前回で終了した『体育にまつわるエトセトラ』ですが、書き終わってみて、改めて気づいたことがいくつかあります。たとえばですね......。

 草野球、草サッカー。やったことのある方、いらっしゃるでしょう。野球を楽しむ。サッカーを楽しむ。なのに、中には無茶苦茶ムキになって、和やかな雰囲気をブチ壊す人間がいる。

 たとえば、セルジオ越後。

 このおっちゃん、我が師匠でもあるのですが、サッカーになると大人げないこと甚だしい。敵として対戦している時のこと。コーナーキックになった際、ストライカー越後はゴールマウスを守るカネコタツヒトの元にツカツカと近づいてきました。でもって、こちらのスパイクにツバを「ペッ」。当然、こっちは唖然です。そしたら、そのスキにヘディングシュートでチョンとゴール。

「サッカーにツバを吐いたらいけないってルールはないよなあ、ハハハ」

 おっちゃんが危険なのは敵の時だけじゃありません。あれはアメリカ・ワールドカップ出場をかけた最終予選がドーハで開かれていた時のこと。日本の記者団対イランの記者団で親善試合をやろうってことになりました。エースはもちろんセルジオ越後。キーパーはカネコタツヒト。その他、奥寺さんがいて田中さんがいて......えーと7人ぐらいは元日本代表だったのかな、とにかく豪華なメンバーでした。ところが、イランはイランでほぼ全員が元代表。強いのなんのって。年齢層は高いものの、技術では日本より明らかに上。体力の日本、技術のイラン。がっぷり4つの好ゲームとなりました。

 ただ、そうはいっても所詮は草サッカーの親善試合。ゆる~い気分で試合に参加していたカネコタツヒトは、オフサイドラインを抜け出してきたイラン人ストライカーの足元に飛び込もうとせず、あっさりとゴールを許してしまいました。するとですね。遠くの方からおっちゃんの罵声が飛んできたのです。

「やる気がないんなら帰れ、カネコ!」

 いや、あの、帰れって、たかが草サッカーじゃないっすか。ここはドンマイっていうところでしょ。なにそんなにムキになってるんですか......と心の中ではつぶやきつつ、まさか反論できるはずもないカネコタツヒト26歳。「まあまあ気にしないで」と奥寺さんに慰められながら、重い気持ちで98分ほどプレーしたのでありました(なんで98分だったかというと、体力に優る日本が後半逆転に成功してしまったため、笛を吹いていたイラン人の主審がなかなか試合を終わらせようとしなかったからでした)。

 今回の『体育にまつわるエトセトラ』を書いてみるまで、わたくし、おっちゃんが大人げないのはブラジル人だから、負けず嫌いなブラジル人だから、だと思っておりました。

 でも、スポーツ=祭りだったとしたら?

 だんじりに参加する。みんなが必死になってやってる中、一人だけヘラヘラしてたら? 山笠に参加して、一人だけ全力を尽くしていなかったら?

 張り倒されるでしょ。

 いまから思えば、知らず知らずのうちにスポーツ=体育を刷り込まれてしまっていたわたくしは、学校教育の一環として行われている「公式戦」から離れてからというもの、草サッカーなんぞにムキになるのは大人げない、と思い込んでおりました。スポーツは娯楽であるという意味を曲解して、心に余裕を残してエンジョイするのがオトナのスポーツだと思い込んでおりました。

 完全な後付けの論理ですな。

 ほとんどのスポーツがそうであるように、日本の祭りにも「競争」をイベントの主目的に置いたものがいくつかあります。そうした祭りに参加するとき、日本人はどうするか。

 ムキになる。必死になる。

 なのに、これが草サッカー、草野球になると、カネコタツヒトを含む多くの日本人は主目的を「競争」から「団欒」に置き換えてしまいます。ムキにならず、ミスをしても「まあまあ」でおしまい。スポーツが学校教育の体育から切り離されている外国人の場合、どこで誰とどんなシチュエーションでやろうとスポーツはスポーツだから、その第一義である「競争」に対してムキになる。スポーツと体育が混同してしまっている日本人の場合は、公式戦か否かで取り組む姿勢に違いが出てくる。

 つまり、セルジオのおっちゃんはスポーツの本質を理解していて、カネコタツヒトはしていなかったと、そういうことですな。

 日本中には、体育教師として熱心に指導に取り組まれていらっしゃる方がたくさんいます。そういう方の顔を思い浮かべると、体育という言葉を全面的に否定するのはちょっと辛い。

 でも、やっはり体育という言葉がスポーツと混同されてしまっているがゆえの弊害は見逃せない。というわけで、明日に控えたホンダとの一戦を前に意気込む動楽者でした。


 どこぞに俺のドッペルゲンガーがおるんかいな。そう思ってしまうようなコメントが届いておりました。デブピエロさん、あなたのことです。

スポーツは文化です。よく聞くフレーズです。
要するに日本にはスポーツは無かったと言うことです。
無かった文化に当てはまる日本語は無くて当然やと思います。
文化と呼べるまでには時間が必要やないかな。
皆がこうやって話題にあげてより良くしようとしていれば
一世紀後にはスポーツは文化になってると思います。

 まさしく、わたくしめもそう思っておりました。おりました。つまり、過去形です。日本にスポーツはなかった。だから、仕方がない。時間の経過を待つしかない。そういう前提に立っていたからこそ、スポーツを和訳しようなんて発想が根本からなかったわけです。そんなことしたってしゃあないやん、てな感じで。

 スポーツは外来のもの。日本にはなかったもの。だから誤訳されて、だから軽い。

 本当にそうでしょうか。

 スポーツというものの出自を考えてみましょう。何度も繰り返すようですが、娯楽だったわけです。空いた時間を楽しく過ごすため、日常の憂さを晴らすため、他人、あるいは他の集落に勝つ喜びを味わうため。競技人口が増えれば、共通のルールが必要になってくる。洗練もされてくる。そうして生まれた数多のスポーツが、ときには帝国主義とともに、ときには覇権主義とともに広がって行った。ま、基本的にはそんなところでしょう。

 空いた時間を楽しく過ごすため。日常の憂さを晴らすため。他人、あるいは他の集落に勝つ喜びを味わうため。

 なんだか、ある種の祭りと似てませんか?

 日本全国には、数多くの祭りが存在します。そして、その中には、欧米で生まれたスポーツと極めて似通った部分、つまり「コンペティション(競争)」をイベントの主軸に置いているところが数あります。

 たとえば、博多の山笠。これがスポーツではないという理屈が、カネコタツヒトには見つけられません。参加者の運動量は、おそらくはサッカーにおけるゴールキーパーのそれをはるかに上回っているはず。みんなが身体を動かし、汗を流し、そして、楽しむ。

 では、スポーツ=体育ならば、山笠=体育でもあるのか。

 違うでしょ。

 体育が生まれたのは、せいぜい明治に入ってからのこと。山笠は、鎌倉時代から続く祭りです。山笠だけじゃない、日本中には、平安時代から、奈良時代から続く祭りがいくつもあります。

 国民の心身を健やかに保つため、だとか、そのことによって精神力を鍛えるため、なんて理由があったからでしょうか。違う。楽しかったから、でしょ。

 第二次大戦中、当時の日本では多くのスポーツが中断に追い込まれました。「この非常時に」というのがその理由です。

 山笠はどうだったか。戦局も押し詰まってきた昭和19年。祭りはいつものように開催されました。開催されなかったのは、昭和20年のみ。それも、大空襲によって博多の街が焼け野原になってしまったから、というのが理由でした。驚くべきことに、終戦翌年の昭和21年には、子供たちだけが参加するという変則的な形とはいえ、すぐに山笠は復活します。さらにその翌年の22年には、全面的に復活。

 非常時である以上、スポーツは中断に追い込まれても仕方がないと考える日本人が多数派だった一方で、祭りだけはなんとしてもやると考える人間が多数派だった日本もあったのです。

 ご存じの通り、いまは100年に一度の不況だとか。日本のスポーツ界も、その余波をモロにかぶっているのが現状です。

 でも、ゆえに山笠が中止になりそうだという話は、幸いにして聞こえてきません。ウチの父親の田舎は長野県の諏訪市なのですが、来年は御柱祭が当然のように開催されることでしょう。

 だって、みんなが楽しみに待ってるんだから。

 日本人にとってスポーツは軽い。このコラムの中で、カネコタツヒトはずっと言い続けてきました。でも、もしスポーツが娯楽だという前提にたつのであれば、つまり祭りと同じ意味合いを持つのであれば、日本人にとってスポーツは軽くない。断じて、軽くない。欧米にスポーツが生まれるはるか以前より、スポーツ的なイベントを楽しんできた歴史とメンタリティがこの国にはある。

 ならば、なぜこんなことになってしまったのか。

スポーツという英語が体育と誤訳され、本質として持っていた娯楽の部分が削除されてしまったからこそ、軽くなってしまったのではないか。すっかり和製英語として定着しつつも、依然として欧米人が「SPORTS」という単語を見聞きした時とはいささか違う受け止め方をしてしまっているからこそ、娯楽をイメージさせる新しい和訳を考える必要があるのではないか。

そう思ったのです。

スポーツは、娯楽である。スポーツは、祭りである。そのことを訴えたくて、書き始めた「体育にまつわるエトセトラ」でした。細かい部分でまだ書き切れてないところはありますが、基本的にはお伝えしたいことはすべて書き切りました。ひとまずは、すっきり。

でもって、みなさんに受け入れられるかどうかをともかく、まずは自分が「動楽作家」を名乗っていこうと思います。ホントは動楽者がいいんですが、ご指摘にあった通り、直訳するとスポーツマンになってしまうもので。で、過去の金子塾塾生やしもべとして働いてきた人間には、どんどんとこの名称を使うようにと強制......もとい、お願いします。もしかしたら、ホントにあと何年かしたら、この造語が日本語として認められるかもしれないと夢見ながら。


 きっつい負けは腰に来るってことがわかってきました。

 さて、つい最近まで知らなかったのですが、日本には「スポーツ振興法」なる法律が存在しているそうです。ちょっとね、その一文を紹介します。

(目的)
第1条 この法律は、スポーツの振興に関する施策の基本を明らかにし、もつて国民の心身の健全な発達と明るく豊かな国民生活の形成に寄与することを目的とする。
2 この法律の運用に当たつては、スポーツをすることを国民に強制し、又はスポーツを前項の目的以外の目的のために利用することがあつてはならない。

 制定されたのは昭和36年。つまり東京オリンピック開催の前年のことです。しっかしまあ、まさかこんなにもツボに来る法律があるとは知りませんでした。

 だって、考えてみてください。この法律、スポーツすることを国民に強制してはならん、と言っているわけです。

 麻雀することを国民に強制してはいけない。美食を国民に強制してはいけない。美術鑑賞を国民に強制してはいけない。音楽を国民に強制してはいけない。

 当然のことながら、そんな法律はありません。だって、みんな娯楽なんだから。

 でも、スポーツを体育に置き換えてみると、こんなにもぴったりくる法律もない。行うのは、国民の心身の健全な発達、つまりは富国強兵のため。ただし、体育は娯楽ではないし、嫌いな人間もいる以上、学校教育を離れてまで強制するのはいかん。法律を提案した人、勉強は得意だったけれど、運動神経には恵まれなかったのかもしれません。賛成した国会議員の方にも、そういうタイプが多かったのかもしれません。

 スポーツ=体育じゃ、しょうがないよな。文藝春秋の社員に、本当の本当に麻雀が下手なのに、でも打つのが大好きな人間がいます(キャッシュディスペンサーとも呼ばれております)。客観的に見ればかなり音痴なのに、それでもカラオケが大好きなおっちゃんもいます。娯楽って、そういうもんでしょ。

 問題は、かくも素敵な法律を作った方々だけじゃない。他ならぬカネコタツヒト自身、やったことのないスポーツにはしり込みしてしまう自分がいます。下手だから。迷惑かけるから。麻雀を始めた時、カラオケと出合った時には出てこなかった消極性が、スポーツに関しては出てきてしまうのです。そのあたり、ガイジンさんは積極的。やったことがないってことを、ハンデじゃなくラッキーだと考える人も多い。経験者が知ってしまった世界を、自分はこれから新鮮な形で楽しめる。よって、ラッキー。だから、偉そうなことを書いていながら、俺の中にも体育ナイズされたスポーツ観というのはあるわけで。

 スポーツは、娯楽である。まずはこの大前提から始めなきゃいかんのかな。

 ミュージック=音楽。わかる。音を楽しむ。娯楽な感じが伝わってくる。興味深いのは、音楽にまつわる文章を書いている人たちの肩書で、「音楽評論家」「音楽ライター」「ミュージック・ライター」など、和洋折衷、多種多様なわけです。

 ところが、スポーツにまつわる文章を書いている人たちで「体育評論家」「体育ライター」を名乗っているという人は見たことがない。たいていはスポーツライターかスポーツジャーナリスト。日本語で生きていく人間なのに、アルファベットでしか自分の立場を表現できない状況ができあがっております。これはたぶん、スポーツ=体育と訳される教育の中で育ちつつも、どこかで違うな、おかしいなと考えている人がほとんどってことじゃないでしょうか。

 時間はかかるかもしれない。でも、そろそろ体育に変わる日本語を考えていかなきゃいかん。

 体育にまつわるエトセトラ、結論その1。「動楽(どうらく)」っていうのは、どうでしょうか。

 音を楽しむのが音楽なのであれば、スポーツとは動くこと、汗を流すことを楽しむもの。よって、動楽。やるのもよし、見るのもよし。道楽に近い響きを持つことで、スポーツは大切なんだけれど、でも、たかがスポーツというニュアンスを持たせることもできる。間違っても、他人に強制しようなんてこともなくなる......かどうかは、後輩に麻雀の習得を強制した人間としては悩ましいところですが、ともあれ、強制しちゃいかん、なんて法律がいかにとんちんかんなものか、ということは伝わる。

 いまよりは、スポーツの本質が伝わりやすくなるかもしれない。

 もし、みなさんの賛意がいただけるのであれば、今後メディアに出る際、カネコタツヒトは肩書を改めます。「動楽者(どうらくもん)」、もしくは「動楽作家」。正直、作家という肩書には強烈な抵抗があるのですが、スポーツライターという言葉を和訳すると、これしか思い浮かばないもので。

「え? 動楽ってどういうことよ?」

 そんな反応を引き出せればシメたもの。

 みなさんの反応がしょっぱければ、代案を考えつつ、しばらくはスポーツライターでいくということで(笑)。

 さあ、いよいよ次回は、今回のテーマで一番書きたかったこと、結論その2に入ります。たぶん。


 これだけコクのあるコメントを寄せていただいてると、なんだか、このテーマを終わらせるのがもったいなくなってくるなあ。

 サトウさん。「日本人が捕虜を奴隷のように扱ったというのは欧米人のプロパガンダです」というご指摘。待ってましたよ、これ。もちろん、そういった側面はあるでしょう。ただ、当時の日本には「戦陣訓」なる教えがあったことも忘れないでください。生きて虜囚の辱めを受けず、ってやつです。

 当時の日本人にとって、捕虜になることは恥でした。恥ずかしい身分に転落することでした。それが正しいか、間違っているかは別の問題として、自分たちが捕虜という立場をそのように受け止めていたのならば、自分たちの捕虜になった敵軍兵士にも同様の見方が向けられたはず、とは考えられませんか? 少なくとも、対等の立場でなかったことは間違いありません。捕虜収容所と刑務所は似て非なるものですが、日本人の感覚としては今も昔も、捕虜と罪人を同一視してしまっている感があります。刑務所であれば、独房にグローブやボールを持ち込めないのは当然。日本であろうが、欧米であろうがね。

 footballparkさんの指摘も興味深い。「欧米人こそ捕虜を奴隷として扱っていたのではないでしょうか」。これ、イエスでありノーであるとも思います。つまり、欧米人が欧米人を捕虜とした場合はノー。欧米人が有色人種を捕虜にした場合、ナチがユダヤ人、スラブ人を捕らえた場合はイエス。第二次大戦中のアメリカで、イタリア系アメリカ人、ドイツ系アメリカ人に比べ、日系アメリカ人がはるかに苛烈な扱いを受けたのもイエス。アブグレイブ収容所のケースも、イエス。ココの場合は「収容所」と呼ばれてはいますが、捕らえる側の感覚としては限りなく刑務所に近い、ということもあるでしょう。

 距離が差別を生む。無知ゆえに冷酷になれる。

 第二次大戦中、日本では「鬼畜米英」という言葉が当たり前のように使われていました。ほとんどの日本人には外国人の友人などいなかった時代です。知らなかったから、憎むことができた。遠かったから残虐にもなれた。同じことはアメリカについても言えるでしょう。だから、無差別爆撃を行うことができた。原爆を落とすことができた。

 いまが1945年だったらどうでしょう。もし日本がオクラホマに爆撃を行うとしたら、ランディ・バースを神と崇める阪神ファンは平然としていられるでしょうか。アメリカが愛知県に原爆を落とすとしたら、イチローを愛するマリナーズのファンは黙っていられるでしょうか。

 ベオグラードが爆撃された際、ストイコビッチの「NATO軍よ、爆撃をやめてくれ」という必死の訴えに呼応した日本人は皆無だったでしょうか。

 スポーツには、距離を縮める力がある。無知を有知に変える力がある。第二次大戦以降、近隣諸国から警戒されることはあっても愛されることはまずなかったドイツは、06年ワールドカップの素晴らしい運営によって「愛されるドイツ」に変わるきっかけをつかみました。少なくとも、ドイツ人はスポーツの力を知っている。

 日本人はどうでしょうか。

 東京オリンピックの招致活動を見ていると、とんちんかんすぎて涙が出てきます。IOCの視察団がやってきた。そこに日本のメダリストを集めてどないすんねん。日本人しか知らない日本人のアスリートを集めて、東京をオリンピックの開催地にしようか考えてる外国の人たちに対してどんな訴求力が生まれるっちゅうねん。スポーツの力を知らない官僚や政治家は「とりあえずスポーツ選手を集めておきゃなんとかなるか」と考え、引っ張り出されたスポーツ選手は政治をまるで知らないときた。それゆえの愚策。

 テレビのスポーツ番組にタレントさんが起用されるのも根っこは一緒。つまり、テレビを作る側の人間に、「スポーツ=体育=軽いもの=退屈なもの」という認識があるから、「面白いものを付け足さなきゃ」ってことになる。「スポーツ=娯楽」という前提があれば、こんなことにはまずならない。『笑点』の大喜利にいま人気のお笑いコンビを乱入させたりはしないっしょ。落語は娯楽だし、プロデューサー個人の判断でいじれるほど軽いものじゃないから。

 第二次大戦マニアのツボを刺激してくださるコメントがあったもので、つい脱線してしまいました。あ、ひでさんからの指摘に対するお答えを。なぜカネコタツヒトという主語を使うのか。これ、実は前々から悩んでいる問題でして、以前のブログでは「我が輩」という主語を使っていた時期もあります。わたし、だと紙媒体と同じになってしまうし。照れ隠しといったらなんですが、真面目な問題にまなじり決して取り組む、というスタイルには抵抗があるんですよねえ。矛盾するようですが、スポーツは重いけれど、でも、たかがスポーツという一面もあるわけで。

「わたし」でいけ、という意見が多いのであれば、これからはそうします。

 さあ、次回こそ結論に入れるかな。


 偉そうに言います。

スポーツライターの条件。スポーツに愛着があるのは当たり前。ライターである以上、書く能力がなきゃいかん。では、書く能力をつけるためにはどうしたらいいのか。これが「無から有を作り出す」小説家であれば、持って生まれた才能に左右されるところが大なのでしょうが、幸いにして、ノンフィクションの場合は題材が魅力的であれば、書き手の能力をカバーしてくれるところがある。もちろん、そのためにはインタビューの能力をあげていかなければならないという問題はあるのだが、とりあえず、書くということに関しては努力でなんとかなる。

 じゃ、いい書き手となるための努力とはなにか。可能な限り多くの書物を読むこと。それが若いころであればなおよし。脳味噌が柔らかいうちに刷り込まれた表現の数が多ければ多いほどよし。書くというのは、基本、模倣の積み重ね。だったら、サンプルとなるデータは多ければ多いほどいい。

 映画を見る、というのもある。このシーンはどんな脚本によって成り立っているのかを想像する。自分だったら、映像を文字に変換するためにどんな表現をするのか想像する。スティーヴン・キングの作品が「映像が目に浮かぶよう」と表現されるのは、たぶん、その作業をしているからなのではないか、と想像する。名匠スタンリー・キューブリックによって映画化され、その映像美を絶賛された『シャイニング』に彼が激しく噛みついたのも、原作を書く際に彼が思い描いた想像上の映像と、キューブリックが撮った実際の映像が大きく食い違っていたのも一因ではないか、と想像する。原作とシナリオの違いや、ジャック・ニコルソンの存在感だけが問題、というわけじゃなくて。

 ちなみに、カネコタツヒトが好きな映画ナンバーワンは『大脱走』。もう一体何回観たことか。海外出張の際は必ずDVDを持っていくし、3年前、フランクフルトでアパートを借りた時はリビングで上映会をやり、しもべたちに強制的に鑑賞させたものでした。

 ご覧になられたことのない方のために簡単にストーリーを説明しておくと、第二次大戦下、ドイツ軍の捕虜となった英米軍の兵士が、知力の限りを尽くして収容所から脱走する、というもの。ま、端的にいってしまえばそれだけのお話なんですが、スポーツライターとしては考えさせられるシーンもあるわけです。

 脱走しては捕まり、また脱走しては......を繰り返し、『独房王』と呼ばれるようになった米軍兵士がいます。常人であれば精神に異常を来すこともありうる独房暮らしを、スティーブ・マックイーン演じるヒルツ大尉はそのたび、平然と乗り切るのですが、その助けとなるのがグローブとボール。暗闇の中で、彼は壁を使った一人キャッチボールを楽しみ、精神を平穏に保っていくのです。

おお、なんと偉大なスポーツの力......なんてことが言いたいのではありません。この映画、原作は史実に基づいたノンフィクション。実際に捕虜収容所に入れられていた兵士たちは、セットの再現などに協力し、映画が完成した暁には「よくぞここまで再現してくれた」と感激したほどだったそうです。

つまり、独房にボールとグローブを持ち込んだ米軍兵士の話は、たぶん、史実。で、日本人としてはつい、こう思ってしまいません?

「捕虜収容所って、そんなに自由なのかよ」

 半世紀以上前のドイツ人が、アメリカでしか行われていなかった野球を知っていたとは思えない。それでも、彼らは独房の中にグローブとボールを持ち込むことを許した。独房って、懲罰房のことですぜ。これが日本軍に捕まった米軍兵士であれば、一般房であってもグローブやボールの持ち込みなんて禁止されたことでしょう。

 だって、非常時には自国民からもスポーツを奪った国なんだから。

 スポーツ=体育である以上、敵国兵士の身体を育てていいことなんかあるわけがない。当然、禁止。それが当時の日本人の論理であり、もしかすると、いまもどこかに残っているメンタリティかもしれません。

 もちろん、捕虜を限りなく奴隷に近い存在として考えていた日本人と、拘束はしていても、あるいはされていても立場は同じ、という共通認識があった欧米人の違いはあるかもしれません。

 でもね、カネコタツヒトとしては、やっぱり日本におけるスポーツの軽さを思ってしまうわけですよ。第二次大戦中、食料増産のために野球場を畑に変えた国がある一方で、NATO軍による空爆の最中にも「芝生を守らなければ」と整備を続けたレッドスター・ベオグラードのグラウンド・キーパーがいる。いい悪い、あるいは優劣の問題ではなく、でも、違いは間違いなく存在する。

 じゃあ、いつまでたっても日本におけるスポーツは軽いままなのか。

 結論。違います。断じて違う。

 軽いのは体育であってスポーツではない。次回は、その根拠について述べます。


嗚呼、親不知

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 親不知を抜いたらエライことになってしまいました。顔はパンパン、モノは噛めない、しゃべるのもしんどい。ついには慣れない偏頭痛まで始まる始末。あ~頭いてえ。

 というわけで、すみません。体育にまつわるエトセトラ、頭がすっきりしてる時に結論を書きたいので、今日はパスさせてください。

 Yabooomanさん、「投げっぱなしのコラム」にするつもりはありませんので、ご安心を。というか、そういう指摘を実は待っておりました。けなすのは誰にでもできんねん、問題はどうするかやろが......みたいなのをね。答えというか、希望みたいなものはちゃんと用意してありますので、ご期待ください。

 それにしても、みなさん長文のコメントを寄せてくださるのにはびっくりです。中学3年生の時以来年賀状を書いておらず、社会人になってからは「カネにならない字は書かない」とうそぶいていた人間としては、ただただ感謝するしかありません。

 でもって、中にはプロとしてやっていけそうな感性と文体を持ってるヒトもいる。お気づきの方がいるかもしれませんが、このホームページの左上に、クリックしても役に立たないタグがあるんですが、実はこのサイトを立ち上げた理由の一つにはそれもあったりして。ま、おいおい詳しい話ができると思いますので、いましばらくお待ちください。

 あ~頭いてえ。

 それでは、また明日......か明後日にでも。


 6月17日付けの毎日新聞朝刊に東京オリンピック開催についてのアンケートが掲載されておりました。

 賛成62パーセント、反対29パーセント。ま、そんなもんでしょう。招致委員会は賛成のパーセンテージを70パーセント台にまで持っていこうと必死のようですが、正直、いまの段階でそこまでの関心や熱があるとも思えない。オリンピックを開催したことのないマドリードやリオ・デ・ジャネイロに比べて数字が低いのも当然と言えば当然のこと。

 反対の理由で一番多かったもの。「福祉や医療など、ほかの分野にお金を使うべきだ」。これもわかる。誰だって、自分の興味のない分野に大金が使われるのは面白くない。そうだなあ、俺だって「オペラのために3200億円使う」とか言われたら「マジかよ」って思うだろうし(玉木正之さんは大喜びだろうけど)。

 ガッカリしたのは、賛成の理由です。一番多かったのが「東京の都市整備や経済効果が見込める」。

 カネかよ!

 反対するヒトがその理由としてお金の問題をあげるのはわかる。でもね、賛成するヒトまでが特需を期待したオリンピックの開催を望んでいるというのには恐れ入りました。いや、どこの国だって、同じ意見のヒトはいるでしょう。でも、それがマジョリティになってるっていうのは、日本だけだろうな。前回の開催は国威発揚のためで、今度はカネのための開催。これじゃ、10月2日の投票で勝ったところで、素敵なオリンピックには到底なりそうもない。

 だって、自分たちがカネを儲けるためのオリンピックなんだから。それでいながら、アマチュア選手がギャラを受け取ることには眉をひそめるヒトが多いっていうんだから。

 つくづく、この国におけるスポーツの軽さを痛感させられます。

「体育にまつわるエトセトラ」、実は一番言いたかったのもそこなのです。この国ではスポーツが軽い。では、なぜ軽いのか。

 スポーツ=体育だから、ではないか。

 これまで書きつらねてきた問題点は、正直、「で、何か?」と言われてしまえばそれまでのこと。別にチームを軍と訳したってかまわんでしょ、楽しめなくても勝てばいいでしょ......と言われてしまうと、返す言葉はないわけです。

 でも、スポーツの軽さは、形になって現れます。たとえば、スポーツを楽しむ環境の問題。スポーツを楽しむために、こんなにもお金が必要な先進国はちょっとありません。ゴルフのパブリックコースの割合は恐ろしく低く、Jリーグができて10年以上経つというのに、芝生の上でサッカーをしたことのあるおじさんの割合は昔のまま。フットサルをやるにも、テニスをやるにも、水泳をやるにも、とにかくお金がかかります。

 なぜか。国が本腰を入れてないから。スポーツの振興が、利潤をあげなければならない宿命を持つ民間にまる投げされてしまっているから。スポーツを利用して選挙に勝とうとする政治家はいても、スポーツを理念として掲げる政治家はいないし、そもそも、ほとんどのスポーツを管轄する官庁は文科省。スポーツ省、という官庁は存在しません。

 でも、当然と言えば当然なんですよ。だって、スポーツ=体育であるならば、スポーツは日本人にとって6番目以降のプライオリティしか持ってないんだから。

 国語、数学、英語、理科、社会。主要5教科。学校教育において、「主」に「要」となる5つの教科。スポーツはその次。大切なのは5教科であって、スポーツはおまけみたいなもの。

 カネコタツヒト自身、すっかり昔話になってしまった学生時代を思い出してみると、体育のテストとか、ナメてたもんなあ。大事なのはあくまでも主要5教科だって。

 ほぼすべての人間がそういう原体験を持っている以上、この国におけるスポーツが軽くなってしまうのも当然。政治家が、官僚が、そして多くの国民が、スポーツを経済ほどには大切にしないのも当然。

 これほどの経済大国でありながら、世界に誇れるスタジアムが皆無なのも当然。スポーツが大好きで、チャンピオンズ・リーグの決勝にまですっ飛んでいってしまう総理大臣がいて、スタジアムの建設が夢だという建築家がたくさんいて、税制上の優遇処置が数多く設けられている国と、スポーツが軽くて、オリンピックの開会式で自国の選手が行進しているのに立ち上がろうともしなかった総理大臣がいて、スポーツにおけるスタジアムの重要性なんか考えたこともない建築家ばかりで、税制上の優遇処置なんかなにもない国。

 なんでだろ、なんでだろと考え続けて、やっとたどりついたのが「スポーツ=体育だからなのではないか」ということだったわけです。

 このテーマ、まだ続きます。


閑話休題

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 カタール戦のへなちょこぶりに少々ショックを受けてしまったカネコタツヒトです。確かにチームはワールドカップの出場権を獲得した。でも、それはあくまでも「団体」としての権利であって、個人としての権利、つまり選手としてピッチに立つ権利が保証されたわけじゃない。

 思い出すのは、リーガ優勝が決まったあとのバルセロナです。ペップはチャンピオンズ・リーグへ向けての調整を考えて、主力に休養を言い渡しました。代わりに出てきた選手はそれこそ必死。ここでチャンスをつかまないと、いつ次の機会が来るかわからない。で、もう一つ興味深かったのは、休養を言い渡されたにもかかわらず、あえて出場を直訴した選手が何人かいたということ。自分が休めば、代役にチャンスが与えられる。代役がチャンスをつかめば、自分の立場が脅かされる。たぶん、それゆえの判断だったのでしょう。えげつないほどのプロ意識。つくづく感心させられました。

 でも、カタール戦での日本代表は、すべてがゆる~い感じでした。チャンスに飢えた空気も、チャンスの芽を摘み取ってやろうという気概も、中盤より前の選手からはほとんど感じられなかった。それがとにかく残念。

 残念といえば......。

 日曜日の朝、琉球の試合に向かうクルマの中でのことです。

「すいませんねえ、たっつぁん、昨日は電話できなくて」

 そう謝ってきたのは榊原さん。前日、琉球のホーム初白星を祈願して髪の毛を真っ白に染めたカネコタツヒトは誰彼ともなく見せびらかしたくて榊原さんにも電話したのですが、つながりませんでした。ま、それはいつものこととしても(ヒトのことは言えないんですけどね)、いつものバラさんであれば、時間差をおいて必ず返信があるのに、なぜかその日は返信もなし。あれえ、どうしたのかなあと思っていたところだったのです。

「プロレスラーの三沢って知ってますか。彼が昨日、広島で亡くなったという一報が入ってしまったもので......」

 聞けば、バラさんと三沢さんは同い年。もちろん面識もあり。かつてノアに所属する選手がPRIDEのリングに上がることが決まった際、交渉のテーブルについたこともあったそうです。

 面識のある人間が突如としてこの世を去る──。ぼく自身、何回か取材をさせてもらったアンディ・フグが命を落とした時は、別に親しい友人というわけでもなかったのに、しばらくなにもする気が起きなかったことを思い出します。もちろん、熱烈なファンの方が受けたショックとは比べようもないのでしょうが、なんか、すべてがむなしくなってしまったというか。

 結局、バラさんの表情は1日中暗いままでした。

 さて、うだうだと書き連ねてきた『体育にまつわるエトセトラ』ですが、やっぱ、コメント機能があると面白いっすね。1軍、2軍。この指摘には参りました。恥ずかしながらカネコタツヒト、いままでまったくの無自覚で使っておりました。偉そうなことを言いつつ、自分自身、スポーツ=体育が染みちゃってるんだなあと痛感させられます。なんか新しい言葉を考えないといかんな。いいアイデアがある方、ぜひご提供を。

 ホントは今回あたりから結論に入っていくつもりだったのですが、急に本田圭佑のインタビューが入ってしまいました。これから資料と格闘せなあかん。というわけで、じらすわけではないのですが、続きは次回ということで。

 タイトルは「軽さの理由」って感じかな。


 


 ウズベキスタンの頑張りに胸を打たれてしまったカネコタツヒトです。

 確かに審判はひどかった。審判のレベルはプレーヤーのレベルに比例する、という定義に立つと、「こんなんじゃアジアのサッカーは未来永劫世界のトップクラスにゃなれねーな」とあきれ返ってしまうぐらい、ひどかった。普段、心の中で散々文句をつけているJFLの審判がコッリーナさんに見えてしまうぐらい、ひどかった。で、シリア人ご一行様の乱心ぶりが、日本のリズムを崩したのは事実。
 
 でも、ウズベキスタンの頑張りも無視しちゃいけない。

 力の差は歴然。ドイツ式に局面ごとの1対1の勝利数をカウントしていったら、相当日本に分があったはず。

 にもかかわらず、押し込んだのは、より多くのシュートを放ったのは、ウズベキスタン。1対1で抜けきれないのであれば、ええいかまわん、放りこんじまえ......といういささか乱暴なサッカーではありましたが、中沢を始めとする日本守備陣の奮闘がなければ、功を奏していても少しも不思議ではない展開。何か、フットボールの原点というか、闘争心、執念といったファクターの持つ可能性を見せてもらった試合でもありました。

 日本が勝ったのは確かに嬉しい。でも、ああいう相手の頑張りを評価する記事も読んでみたかった。日本が負けると、相手チームから「いかに日本が手ごわい相手だったか」というコメントを必死になって引き出そうとする一方で、自分たちが勝つと完全な上から目線というか、相手の健闘を讃える視点がずいぶんと希薄になってしまう気質が日本人にはあるようです。北京オリンピック予選の対ベトナム戦でも感じたことなんですけどね。

 さて、と。

 以前、清原和博から「戦犯なんて言葉使うの、日本だけでしょ」と言われ、言葉を失ってしまったという話を書きました。

 嗚呼、なぜエルキュール・ポワロがいうところの「我が灰色の脳細胞」はあんなにも回転が鈍かったのか。なぜ即座にこう切り返すことができなかったのか。

「でも清原さん、巨人"軍"に入ることを希望したのはあなたですよね」(言えるわけないんですけど。結構ビビッてたし)

 野球チームに「軍」とつける。冷静に考えてみると、すごい感覚です。ちなみに、スポーツ=体育と翻訳している国は、日本以外にも中国、韓国などがありますが、中国ではチームのことを「隊」、韓国では「団」と呼ぶのが一般的なようです。軍隊、軍団......どちらも軍を連想させる言葉ではありますが、まだわからないでもない。日本はそのものズバリの「軍」。どうやったって、チーム=軍っていう和訳はめちゃくちゃでしょ。しかもこの単語、巨人だけじゃなく、ヤンキースなんかを省略して「ヤ軍」て表記するのも、普通に使われてるし。

 まだ体育ならば、先生によっては楽しむことができるかもしれない。でも、軍じゃ無理っしょ。

 ご存じの通り、我が体内には黄色と黒の血が流れておりまして、ジャイアンツは口にする際、必ず頭に「クソ」とつけてしまうぐらい大嫌いなチームです(選手個人はいいヒトが多いんですけどねえ)。ただ、このチームが日本の野球を引っ張ってきたのは間違いないし、スポーツが人気を博していくうえで、いわゆる「巨人」と言われる存在が必要なのもわかっているつもりです。

 でも、そんなチームが末尾に「軍」をつけている。ずいぶん昔のヒトがつけた文字だとはいえ、21世紀になってもそれが平然と見過ごされている。日本人の感覚に馴染んでしまっている。

 昔の偉い人が残した言葉に「精神は細部に宿る」というヤツがあります。これ、個人的にすごく好きな言葉なんですが、巨人が軍であるという現実には、日本人のスポーツに対する考え方が如実に現れている気がしてならんのです。

 体育にまつわるエトセトラ、次回はいよいよ一番書きたかったことにいきます。

 


 日本人の付和雷同体質。エースのジョーがバッシングを受けたのには、もちろん、それも大きく絡んでいるでしょう。社会的な事件にもなった現象が、たった一つの理由によって起こったはずもない。「しがない大学生さん」、ナイスつっこみ。こういう異論、大歓迎です。

 ただ、ジョー君とロナウドのケースでは、ブーイングを浴びせた人たちの「属種」がいささか違います。ロナウドにブーを浴びせるのは、アンチ・ユナイテッド。ジョー君に水をぶっかけたのは......アンチ日本人? 弱いチームのファンからすると、確かにロナウドの態度は挑発的で、自分たちがバカにされたような気分になることもあるでしょう。だから罵声を浴びせる。気持ちはよくわかります。

 でも、ジョーって日本人を挑発してましたっけ?

 やっかいなのは、体育とスポーツはまるで本質が異なっているのだけれど、ただ、似通った部分がないわけではないということ。ロナウドは態度が悪いからブーを浴びる(ま、他にも理由はあるでしょうけど)。ジョー君はガムを噛んでいたから水を浴びた。確かに似ている。似ているけれど、でも、少し違う。でもって、この違いこそが、日本の将来に大きな影響を及ぼしていくのではないか。スポーツという言葉を体育に置き換えてしまうことで、どんどんと弊害が出てくるのではないか。そう考えて始めた今回のシリーズだったわけです。

 たぶん、あと数回で「一番言いたいこと」にたどりつきます。それまで、しばしのおつきあいを。
 
 さて、案の定というべきか、田中のマー君をイワせてからというもの、虎さんチームはすっかり勢いに乗った感があります。今日は福原が完封で3連勝。昨日は来日したばかりのブラゼルがいきなりの決勝2ラン。やっぱ、名前がBで始まる阪神の助っ人はいいのかもしれない。

 ちなみに、このブラゼル、昨日家を出る際、奥さんに言われたそうです。

「あなた、楽しんできてね」

 よく聞かれる言葉ではあります。オリンピックやワールドカップといった大きな大会に出場する選手が、大会前に抱負を聞かれて「楽しんできます」。ちょっと前だと、頭の固いおっちゃんたちが「けしからん」と激怒したものですが、最近では、わりと抵抗なく受け入れられるようにもなりました。

 でも、頭が柔らかかったはずの若きカネコタツヒトも、なんかひっかかるところはあったんだよなあ。「楽しむ」というわりには、コメントしてる選手たちの表情は硬いし、なんていうか、プレッシャーから逃れるためにエクスキューズしてるって感じがして。

 で、ここでもう一度思い出してみます。スポーツの原点とはなんだったのか。娯楽、です。好きだから始めた。楽しいから続けた。プレーヤーとしてレベルが上がり、注目とギャランティが高まっていくにつれ、プレッシャーも高まっていく。楽しかったから始めたはずのスポーツが、自分を苦しめるようにもなっていく。

「楽しんできてね」=「原点に帰ろうよ」

 ブラゼル夫人が旦那さんにかけた言葉には、だから、そんな意味が込められていたんじゃないかという気がします。

 体育の原点って、なんだったんでしょうか。楽しみ、ではない。楽しいからって授業中ヘラヘラしてたら、教師から雷が落ちてきます。

 つまり、原点に帰っても楽しみがない。

 これは選手に限らず、ほとんどの日本人にとっていえること。ということは、選手が口にする「楽しみたい」は、欧米の人たちが口にする言葉とは微妙にニュアンスが違ってくるし、受け取る日本人の感受性も、またしかり。素敵な言葉なはずなのに、どうしてあんなにも違和感を覚えてしまったのか。「体育」というキーワードをあてはめると、その答が見えてきたような気がするのです。

「体育にまつわるエトセトラ」、次回も続きます。


 監督が動いて負けた。なのでズルズル行くな、と思った。昨日の阪神は監督が動いて勝った。しかもマー君に勝った。逆転で勝った。球児のストレートが悪い時の久保田みたいになっちゃってるのは気になるものの、ま、これで上昇気流に乗ってくれるでしょ。1カ月ちょっとあれば、貯金生活に突入かな。

 さて、阪神のことはさておき、長いことこの商売をやっていると、時々ガツンと来る言葉に出くわすことがあります。たとえばですね──。

「ワールドカップは戦争なんだから、もっと闘志を見せてほしかった」
「カネコ、お前は戦争を体験したことがあるのか?」

 いまから10年前、名古屋テレビの仕事でストイコビッチのドキュメンタリーを作っていたときの話です。ベオグラードにあるピクシーの自宅に招待してもらい、現地のお正月料理、パリパリに皮の焼けた子豚の丸焼きを肴に美味しいご当地ワインをご馳走になっていた時のことでした。「フランス・ワールドカップに出場した日本代表をどう思うか」というピクシーの問いに答えると、穏やかだった彼の表情が一変したのです。

 ベオグラードの街のあちこちには、まだNATOによる空爆の傷跡が生々しく残っていました。戦争という言葉を軽々しくたとえ話なんかに使っちゃいけないんだ、と痛感させられた瞬間です。

 去年の年末にもガツンとの出会いあり。

「それこそボロクソ書かれましたからね。戦犯、とか。日本ぐらいでしょ。スポーツの勝ち負けにそんな言葉使うの」

 言葉の主は清原和博。思わず、身体が硬直してしまいました。だって、よく使ってたから、自分も。

 戦犯。戦争犯罪人。犯罪ですぜ、犯罪。言われてみれば、欧米のメディアでも、出来の悪かった選手を酷評することはあっても、犯罪人扱いすることはない。その選手のせいで負けることがあったにしても、人格まで否定されることはない。

 なぜ日本のスポーツ界では、こんな言葉がごく普通に使われてしまうのか。

 スポーツ=体育だからじゃないか。富国強兵政策の一環として導入されたルーツが、21世紀になっても、こうやって偉そうな物言いをしているカネコタツヒトも含めて、日本人のスポーツに対する考え方を縛ってしまっているからではないか。

 思い出すのは98年フランス・ワールドカップの時の出来事です。1点も取れなかった城彰二が袋叩きにあいました。成田では水をかけられ、Jリーグが始まってからも、行く先々でブーイング。実をいえば、あのころのカネコタツヒトは、エースのジョーに同情しつつも、「日本もヨーロッパらしくなってきたなあ」などと感心したりもしていました。

 でも、いまになって振り返ってみると、ひっかかるところが出てきます。なぜ城はあれほどまでに叩かれたのか。点が取れなかったから? じゃあ他の選手も叩かれなきゃおかしい。なにせ、あの大会で日本があげたゴールは、たった1点だったんですから。

 態度が悪く見えたから。ガムを噛んでいたから。それが、城に対するバッシングを加速させたという面はなかったか。

 あったような気がします。

 バルセロナに留学した際、カネコタツヒトがまず驚いたこと。授業中、ガムを噛んでる生徒がいる。スターバックスのコーヒーを持ち込んで、ゴクゴク飲んでる生徒がいる。あろうことか、リンゴをかじる生徒までいる。でもって、教師がなにも言わずにニコニコしている。隣と雑談していると、「出て行きなさい」と激怒する教師でさえ、です。

 まして、スポーツとは本来娯楽として始まったものの。「態度」というのは、はっきりいってしまえばどうでもいいもののはず。結果は出せばよし。ダメならば叩かれる。人間性やたち振る舞いは関係ないもののはず。無論、人柄や態度がいいに越したことはないものの、それはあくまでもスポーツの副産物であって、絶対条件じゃないはず。

 でも、軍隊は違う。高校時代に号泣させられた映画『愛と青春の旅立ち』では主人公が士官学校で地獄の訓練を課せられる場面がありますが、訓練の最中、笑顔を見せたりすることはアメリカであっても許されない。命令には絶対に服従。口にしていいのは「イエス、サー」もしくは「ノー、サー」のみ。

 日本と欧米では、学校における生徒と教師の関係が違う。スポーツに対する考え方も違う。

 だからエースのジョーは叩かれたんじゃないか。そんな気がするのです。

 体育に関する私的考察(笑)、まだ続きます。


 波瀾万丈のローマ出張からただいま帰って参りました。

波瀾①どたきゃん。
出発前日、一緒に行く予定だったFC琉球のオーナーでもある榊原さんよりメール。「緊急の会合が入ってしまいました。申し訳ない」。いえいえいいんですよ。でもですね、世界中が血眼になってると評判のチケットが1枚余ってしまうんですが(ちなみに、帰りの飛行機の中で一緒になった元日本代表の岩本クンの話によると、最終的にカテゴリー1で44万円ほどになっていたそうです。定価は200ユーロなのに)。バラさん、ぼくらのチケット、カテゴリー1なんですけど。ついでに『チャンピオンズ・ビレッジ』というF1でいうところのパドック・クラブのパス(定価800ユーロ)まで用意してもらっちゃってるんですけど。

波瀾②やっぱり無理。
困り果てたカネコタツヒトのところに、FC琉球の通訳でもあるダビッド君より電話。「フィリップが行きたがってるんですけど」。おお、それは素晴らしい。いまちょうどチケットが一枚あまったところだったのだよ。で、我等が総監督はどこにいるの? 「カサブランカです」。じゃあ、ローマで待ってるって伝えておいて。「わかりました。ただ、ローマ行きの飛行機が混んでて、いまキャンセル待ちしてるらしいんですよ」。ん、いいよ。ヨーロッパだと、キャンセル待ちって結構乗れるもんだし。ところが、ローマに到着すると再びダビッドから電話。「キャンセル待ち、ダメだったそうです」。まじっすか。

波瀾③しもべ参上。
3年前のドイツ・ワールドカップの際、カネコタツヒトを団長とする「拳組」は2人のしもべを雇いました。一人は法政の学生。もう一人は慶応の学生。あのころのホームページをご覧になっていた方なら覚えていらっしゃるかもしれません。ヨーロッパ各地で鎧姿を披露させられた、あの二人です。で、一人は大学卒業後に大阪の日刊スポーツに就職(このたび、めでたくトラ番になったとか)、もう一人はカネコ塾一期生だったキザキシンヤのあとをついでドイツ通信員になりました。ドイツとイタリアはお隣の国。というわけですかさず電話をかけます。かくかくしかじかだから、すぐさまローマに来るように。「はい、わかりました」。かくして、急遽しもべ参上。

波瀾④さすがはローマ
すんげえ期待して見に行った決勝戦だったんですが、正直、内容は肩すかし。昔のボクシングでいう金沢対オリバレスのような、ちょっと前のPRIDEでいうと高山対ドン・フライのような、互いにボコボコにやりあう試合を期待してたのに。ま、やっぱりバルサは強いわな。でもって帰りのカテゴリー1のチケットホルダー専用のバスを探すと、これが見つからない。誰に聞いてもわからない。仕方がないので、いつもだったらそうするように、公共交通機関のバスを利用することに。これが例によっての凄まじいラッシュ。日本人と違ってラッシュになれてないヨーロッパ人、バスのドアが開くと我先にと乗り込もうとするものだから、新しいバスが到着するたびに修羅場が展開されます。で、その修羅場に必ず潜んでいるプロフェッショナルがいて、しもべがその犠牲になりました。「あ、電子手帳がなくなってる!」。ちなみにカネコタツヒトのカバンも3箇所あったチャックがなぜか全開になっていましたが、被害はありませんでした。

波瀾⑤さすがはイタリア
本来であれば、こういったフレッシュなニュースを即アップしてこそブログというもの。ところが、宿泊先として予約しておいたノボテル・ラ・ルスティカのスタッフは到着するや否や言いました。「申し訳ありませんが、ただいま当ホテルのインターネット、電話、ファックス、すべて故障しておりまして」。おいおい、通信環境はパーフェクトって書いてあったやないの。で、いつ直るの。「おそらく、明日には」。結局、直ったのは3泊目の朝が訪れようとしたときでした。かわいそうだったのはしもべ。スポニチの原稿を送らなければならない元拳組団長のために、一度パソコンで打った原稿をケータイで打ち直して送るハメになりました。かかった時間、たっぷり40分。その間、元団長はビールをグビグビ飲みながら、ケータイ小説家ってすげえ、と妙な感心をしておりました。

 それにしても、ローマは暑かった。この時期のローマはカラリとして最高に過ごしやすい街という印象があったのですが、どうしてどうして、東京をはるかにしのぐ蒸し暑さ。マンチェスターの選手には相当こたえたはずです。やっぱり、サッカーは蒸し暑いところでやったらいかんね。

 さあて、ひとっ風呂浴びたら、今度は羽田へゴー。明日は3連勝をかけた町田ゼルビア戦です。ちなみにまたニコニコ動画での中継がありますので、興味のある方はご覧ください。ゲスト解説、永井秀樹です。大丈夫かな、あいつ。

 数日前のスポニチで興味深いコラムを発見。さるグラビアアイドルについて触れた内容で、彼女の努力や人柄などを挙げて、「だから応援したい」というコラムだった。

 げ。そのヒトって、カネコタツヒトが過去にインタビューした中で、ベスト3に入るぐらい感じの悪いおねえちゃんだったんですけど。言葉使いはずっとタメ口で、かつ、こっちがそのままの口調で掲載しようとしたら、事務所から強烈なチェックが入り、全部丁寧語に書き直されてたんですけど。

 あれは対カネコタツヒトにだけ、ということだったんだろうか。インタビュー・モードにおける愛想の良さにはいささか自信があっただけに(ちなみにプライベート・モードではかなりの人見知り)、ちいとばかりショック。

 さて、と。

 すんげえすんげえ。まさかこんなにもコメントが寄せられようとは。あっとういう間に掛布(31)になったので、こうなったらバース様(44)まで待ってみようかな、などと考えていたら、そぐにそれも突破。ここは狩野(99)になるまで待ってみようか、と思わないこともなかったのですが、更新をお待ちいただいている方も多いと思うので、とりあえずは清水(45)で一区切りつけることにしました。

 それでは結果発表を。スポーツ19票、アスレティック12票、その他24票という結果になりました。つまり、カネコタツヒトが知りたかったのは、「体育という言葉をみなさんがいかに訳すか」だったわけです。

 なんでそんなことを知りたかったかというと、実は先日、『論スポ』という雑誌の企画で日本サッカー協会の犬飼会長と対談した際、会長がいたく憤慨していたからなのであります。

「せっかく協会みんなでスポーツを文化に、というアクションを起こしているのに、留学してた大学名を平気で"ケルン体育大学"なんて訳してる人間がいるからなあ」

 Deutsche Sporthochschule Köln──確かに、この名前を和訳すると、ドイツ語でいうシュポルトの部分に当てはまる日本語には「体育」しかない気がします。

 でも、体育=スポーツなんだろうか。犬飼会長が憤慨していたのはそこのところ。

 江戸時代の寺子屋に「体育」という授業はありませんでした。なぜか。町人、商人たちは身体を鍛える義務がなかったから。身体を鍛え、武芸に励むのは戦になれば戦場に出るお侍さんだけでよかったから。

 ではなぜ、明治維新以降の学校教育において「体育」なるものが生まれたのか。富国強兵のため。強い兵士を作るために、国民の身体を育てる必要があったから。

 一方のスポーツはどうか。いくつかの例外はあるにせよ、いま世界中で行われている競技のほとんどは、「娯楽」という出自に行き着きます。楽しいから、面白いから広まっていき、やがてルールが統一された。ルールを巡る見解の違いから分裂した競技があるのもご存じの通り。

 で、欧米で生まれた競技の多くは、少しのタイムラグをおいて日本にも伝わります。ベースボールには正岡子規によって「野球」という素敵な和名がつけられました。サッカーは蹴球、バスケットボールは籠球。テニスは庭球でピンポンは卓球。どれも、競技の本質をついた見事なネーミングです。

 ただ、当時の日本人には理解できなかったこともありました。それが「スポーツ」という概念。競技のルールは理解できても、競技を超えて共通する概念を理解するには至らなかった。いまにして思えば、日本全国に残っている多くの「祭」と言われる行事は、限りなくスポーツに近いと思うのですが、日常的に行われているものでない分、スポーツを祭りと訳すのには抵抗があったのかもしれません。

 あてはめられた日本語は、「体育」。

 完全な誤訳、とは言い切れません。確かに、すべてのスポーツには身体を育てる効能があるわけですから。でも、すべてのスポーツは身体を育てるためにやるのか、というと、これはちょっと違う。大前提は楽しいか否か、であって、身体が健やかになるかどうかはあくまでも副産物。

 にもかかわらず、平成の現代にいたるまで、この国においてはスポーツ=体育という認識が広まってしまっています。

 じゃあ、それでなにかマズイことがあるのか。あります。続きは次回の更新で。

 それでは、ローマに行ってきます!

 

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